超葉隠論31.

From : 田渕裕哉(2025/03/09 06:47:39)

2025年3月9日(日)
おはようございます。今朝は昨晩の雪が少し残っている千葉からです。

指導者の心得8.
指導者は危機にあっても冷静でなければならない。

「早く死ぬほう」とは、現世的な「得」を捨てたほうということである。

そして自己の死に方と生き方を取るという道のことなのだ。

つまり、苦しい道、困難な道、悲哀を含む道、悲痛の待っている道という
ことになるだろう。

それらが、人間の生命の本質である限り必ずそうなるしかないのだ

辛く悲しいことだけが、自分の生命の本当の価値をこの世に現世させてくれる。

そして現世の物質界や他者の評価を受け難い道ということでもある>>>続きはこちらから

超葉隠論30.

From : 田渕裕哉(2025/03/08 07:23:45)

2025年3月8日(土)
おはようございます。今朝もさわやかな朝の千葉からです。

指導者の7.
指導者はつねに自分の考えを訴えなければならない。

燃える生命を支える力が、冷たく静かな負のエネルギーによって
もたらされていると分かる必要がある。

葉隠に生きるとは、そういうことに挑戦する人生でもあるのだ。

負のエネルギーが、計測不能の「流体」として我々の見える世界
を支配している。

それはすべての物質の中に浸潤し、その物質の生命を生かしても
いるのだ。

その浸潤を感ずることが出来れば、自己の生命は完全燃焼に突入
していくだろう。

そうすれば、死を想うことが生を生かすことに繋がっているのが
認識されるに違いない。

そして葉隠が、未来に向かう流体そのものであることを理解する
だろう。 >>>続きはこちらから

超葉隠論29.

From : 田渕裕哉(2025/03/07 07:33:36)

2025年3月7日(金)
おはようございます。今朝はさわやかな朝の千葉からです。

指導者の心得6.
指導者には何ものかに祈るというほどの真剣な思いが必要である。

私の根本思想は、死が生より尊いことによって成り立っている。

だから死者は生者より尊い。

そして、まだ生まれ来ぬ未来の人間たちも現世の我々より尊いのである。

このような、死の絶対性こそが、葉隠という武士道の思想の根幹を支えて
いるのだ。

葉隠の魂を見つめれば、現世の自己の存在を捨てることによって、
過去と現在、そして未来をすら見通すだけの思想をもつことが出来るのである。

葉隠の思想は、時間というものを超越している。 >>>続きはこちらから

超葉隠論28.

From : 田渕裕哉(2025/03/06 07:10:45)

2025年3月6日(木)
おはようございます。今朝は曇りの千葉からです。

指導者の心得5.
指導者には命をかけて事にあたるほどの心境が必要である。

「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」

私はいつでも、この言葉によって救われてきた。

弱くなったとき、自己の魂とその使命を忘れることを、
止められたのだ。

再び、体当たりの精神が甦り、私は「人間」の生き方の
原点に戻ることが出来たのである。

私のもつ人生観のうち、最も美しくまた崇高な生き方を、
私はこの葉隠の第一戒からいつでも汲み上げ続けている。 >>>続きはこちらから

超葉隠論27.

From : 田渕裕哉(2025/03/05 07:14:13)

2025年3月5日(水)
おはようございます。今朝も小雨の千葉からです。

指導者の心得4.
指導者は敵をも愛するゆたかな心を持ちたい。

死を見つめる者だけが、人類の未来を感ずることが出来る。

現世において、人間の存在理由を知った者は、そのまま未来の姿
を知ることが出来る。

人間の生命の本質は、過去・現在・未来を貫徹する宇宙エネルギー
の道筋に繋がる。

予言とは、死のエネルギーがもたらすものである。

未来は、死が創り出すものなのだ。

私はこの葉隠第一戒ほど男らしく崇高な言葉に出会ったことはない>>>続きはこちらから

超葉隠論26.

From : 田渕裕哉(2025/03/04 07:58:19)

2025年3月4日(火)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。

指導者の志。
指導者は指導者としての公の怒りを持たなくてはならない。

死ぬために生きることが、真に生きることなのだと知る必要がある

実は生きることの真の出発とは、死に方を決めることに他ならなかったのだ。

「死を教えることは、生きることを教えることになるだろう」モンテーニュ

高貴な生き方とは何か。そして崇高な死に方とは何かを私は問うている。

ただ一度の人生である。高貴を求めずして、何の気概やある。

出来るか出来ないかなどを問う者は、すべて臆病者でしかない。 >>>続きはこちらから

超葉隠論25.

From : 田渕裕哉(2025/03/03 07:59:10)

2025年3月3日(月)
おはようございます。今朝は小雨の千葉からです。

指導者の心得2.
指導者はいうべきことをいうきびしさを持たなくてはならない。

生きるとは、矛盾の中を突っ切るということに尽きよう。

また死ぬとは、矛盾のすべてを引き受けて海岸へ旅立つ
ことに他ならない。

それが我々人間の人生の真実なのである。

真実の人間は矛盾を恐れずに生き、また矛盾を恐れずに語るのだ。

キリストは「私は、火を地上に投じるために来たのだ」と言った。

私はキリストの言葉を、葉隠第一戒と同じ「誠」の言葉として捉えている。 >>>続きはこちらから

超葉隠論24.

From : 田渕裕哉(2025/03/02 06:38:08)

2025年3月2日(日)
おはようございます。今朝もいい天気の千葉からです。

指導者の心得1.
指導者は人、物すべてをあるがままにみとめなくてはならない。

死ぬことだけが、真に生きることを生み出す。

死に狂いとは、このことを言う。

「死は、不死の始まりである」そう言ってロべスピエール
は死んだのだ。

ここには死が生であり、生がそのまま死であることの
人生的真理が潜んでいる。

善悪を考え過ぎる者に、体当たりは出来ない。

自分が悪人として死することも辞さない人間だけに、
体当たりは断行できるのである。 >>>続きはこちらから

超葉隠論23.

From : 田渕裕哉(2025/03/01 07:44:06)

2025年3月1日(土)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。

僕たちは命を、羽のように軽いものだと思っている。
けれどもそれは命を粗末にしているという意味ではなくて、
僕たちは命を羽のように軽いものとして愛しているということだ。

「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」の第一戒が一つの
流体エネルギーと化して、毎日毎日、朝から晩まで自己の中に
浸潤して来なければならない。

この言葉を流体と感ずれば、その内容は自己の生命の内部に
必ず浸潤して来る。

そうなれば体当たりが楽しくて仕方がない状態が現出するのだ。

我々は、その状態を創るまでの過程を鍛錬と呼んでいるに違いない

私は宇宙の本質は「暗黒流体」だと思っている。 >>>続きはこちらから

超葉隠論22.

From : 田渕裕哉(2025/02/28 06:48:39)

2025年2月28日(金)
おはようございます。今朝も博多からお届けしています。

これからはもう物事をあんまり複雑に考えるのは止しになさるんですね。
人生も政治も案外単純浅薄なものですよ。
もっともいつでも死ねる気でなくては、そういう心境にはなれませんがね。
生きたいという欲が、すべての物事を複雑怪奇に見せてしまうんです。

私の人生は、この「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」
という思想の地上的展開に過ぎない。

それ以外に、私は何も望まずまた何を得ようとは思わない。

この思想の人生的実行を目指して生きることだけしかない。

死ぬために生きることは、私の人間としての生のすべてである。

死の覚悟をもって生きることだけが、本当の人間のための
生命燃焼を創る。

体当たりの人生は、死の覚悟なくして決して出来るものではない。 >>>続きはこちらから