超葉隠論6.

From : 田渕裕哉(2025/02/12 05:16:38)

2025年2月12日(水)
おはようございます。今朝も寒い朝の千葉からです。

人物の価値を測る基準は、人格を重視すべきである。
その人のした仕事よりも、その人の性格を重くみることである。

私は助右衛門の話の事実によって、覚悟というものの本質を仰ぎ見ることが出来た。

その日から私は、この覚悟に近づく人生を送りたいと思いながら生きて来たのだ。

私が苦悩の人生を歩んで来たのは、このような理由による。

助右衛門の述べた覚悟は、人間にはほとんど到達不能に近い覚悟である。

それが葉隠の覚悟なのだ。

私はこのような崇高な事実を知ってから60年に亘って、自己の持つ卑しさと
日々対決しながら生きてきたのである。 >>>続きはこちらから

超葉隠論5.

From : 田渕裕哉(2025/02/11 06:10:15)

2025年2月11日(火・祝)
おはようございます。今日は祝日ですね!千葉も寒いです。

善い意味のプライドとは、自分の心を潔く守るように努力することである。
悪いプライドは、他を侮り、見下げ、いばることである。
本当は持たない者なので、感情的に持つ者をねたんだり、恨んだり、憎んだりするのである。

覚悟ということについて、この世で最も崇高で厳しい出来事が歴史に刻まれている。

それは鍋島助右衛門切腹の儀と伝えられた実話である。

この物語は、理不尽な罪によって佐賀藩主鍋島勝茂から切腹を申し付けられたひとり
の古武士の、魂の葛藤をあますところなく伝えるものと言えよう。

そしてこの古武士が、武士道において、あまりにも偉大だったことによって巻き起こ
された「悲劇」が我々の涙を誘うのだ。

鍋島助右衛門の切腹に伴って、妻子を含めその一族郎党19名が殉死したのである。

私は、これを父祖の流した歴史の涙として、一日も忘れたことはない。 >>>続きはこちらから

超葉隠論4.

From : 田渕裕哉(2025/02/10 05:59:42)

2025年2月10日(月)
おはようございます。今日は娘の誕生日です!

目的を高き理想に置くならば、これに達する道は一つではない。
目的によってはあり余るほどこれに達する道がある。

孤独だけが、自己の魂を守る力をもつ。

その生き方は、自分自身の存在に対する覚悟を決めたときに始まった。

私の人生とは、この覚悟が織り成した道程と言っても過言ではない

私のすべての生命活動は、この葉隠の思想に向かって行われている

私の持つすべての知識は、この葉隠の本質的理解のためにのみ志向されている。

私の人生の思い出のすべては、この葉隠の中にしかない。 >>>続きはこちらから

超葉隠論3.

From : 田渕裕哉(2025/02/09 07:35:18)

2025年2月9日(日)
おはようございます。今朝も寒い朝の千葉からです。

目的を勝敗以上の高所に置け。一生の目的を高きに置いてこれを追えば、
途中の障害は多いようでも多くないものと思える。

葉隠的人生を支える形而上学的基礎は、魂の尊厳が人間存在のすべての価値
だと信ずる考え方にある。

この思想は、物質主義の完全否定である。

そして、人間の魂がもつ力への絶対的信頼によって成り立っている

この魂を支える力こそが「負のエネルギー」で構成されているのだ

その負の宇宙エネルギーの力を絶対的な価値とみなしているところ
魂の絶対的尊厳がある。

我々の魂は、負のエネルギーの働きによって、愛や義や信のために肉体を
投げ捨てることが出来るようになる。

その力を絶対視する思想が葉隠れを貫いているのだ。 >>>続きはこちらから

超葉隠論2.

From : 田渕裕哉(2025/02/08 05:44:45)

2025年2月8日(土)
おはようございます。今朝も一段と寒い朝の千葉からです。

思うところは目的以上に置け。天に登ろうとして、ようやく屋根に登るようなものである。

魂が肉体を支配していく過程を「超越的収斂」と呼んでいる。

覚悟がもたらす苦悩と悲痛が、魂の奥底に吸い込まれていく
過程と言えよう。

それらの涙を、魂が吸収することによって、肉体を乗り越えた
自己が出現する。

もちろん、それは完成して終わるものではない。

この状態を維持し発展させることに、葉隠的人生の真の意義がある>>>続きはこちらから

超葉隠論1.

From : 田渕裕哉(2025/02/07 04:53:21)

2025年2月7日(金)
おはようございます。今朝も寒い朝の千葉からです。

理想を行動に移すことが人生である。理想なしにぶらぶら流れのままに
生きているのでは、存在するというだけで、人間の生活をしているとは言いがたい。

自己の生命の本当の価値に気付かなければならない。

それがなければ、すべてがない。

それも、本当に生き切ること。本当に死に切ること。

そして永遠の魂を掴み取ること。

そのような人生を必ず送るのだという決意だけが大切なのである。

その決意が本物のとき、それを覚悟と呼ぶのだ。

覚悟のない者に、未来はない。 >>>続きはこちらから

一日一生4.

From : 田渕裕哉(2023/04/10 07:47:40)

2023年4月10日(月)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。

正しくやろうとせずに、愛着を大切にすれば、仕事への取り組む姿勢は変わる。
愛着は、あなたの人間としての証であり、愛着を仕事場にもちこめば、
あなたは職場で「人間」としていることができる。

「なぜ二度、千日回峰行をしたのですか」って聞かれて
「何もすることがなかったから」って答えると、
あきれられるんだけど、本当に他にやることがなかったの。

他にやることがあれば他のことやってたかもしれないけど。

新しいことを何か始めたってすぐにボロが出ちゃう。

「らしく」みせたって、背伸びしたって、焦ったって、あわてたって、
人間、自分の「地金」は必ず出てしまうものなんだよ。

ならば「これだ」と自分で思ったことを繰り返しやっているのが
いいんじゃないのって思った。

それでもう一度千日回峰行をしたの。

二度目も、ずーっとやっているうちに気が付いたらおしまいになっちゃった。

二度終わったので、それからは日本のあちこちや、海外の聖地を歩いている。

ずーっと同じようなことをやっているわけだな。

もちろん、物事には目標もあるしゴールもあるけど、
昨日何かが終わったからといって、突然、次の日に、
今までと全然違う新しい世界が開けるなんて、人生はそういうもんじゃないね。

でも何も変わらないようにみえても、自分自身はいつもいつも新しくなっている。

毎日毎日生まれ変わっているんだよ。一日だって同じ日はないしな

今日一日歩いた草鞋を脱ぐ。明日は新しい草鞋を履く。

今日の自分はもう今日でおしまい。明日また再生される。 >>>続きはこちらから

一日一生3.

From : 田渕裕哉(2023/04/09 06:50:35)

2023年4月9日(日)
おはようございます。今朝は新潟からです。

永続的な幸せとは「物質的な富」を貧欲に求めることを進んで放棄し、
「非物質的な富」に自分の意識を集中することから生まれる。
すなわち、愛や思いやり、優しさ、知性や貢献心など。

回峰行の師であった故・箱崎文応師が昔、子供のころに聞いたとい
小名浜の大泥棒の話をしてくれたことがある。

その大泥棒、なんと福島県の小名浜から夜な夜な宮城県の仙台まで
歩いて泥棒に行ってたんだって。

泥棒して、また仙台から小名浜に帰る、いったいどうやって歩いてるんだ?」
って聞かれたら「休み休みやってるから疲れないんだ」って説明したという。

どういうふうにうまく歩いたのかっていうと、右足、左足って、
体のいろんな部分を交代で意識しながら歩くんだって。

右が疲れてきたら左足、左が疲れてきたら右、という具合だね。

いよいよ両足がくたびれたら腰、その次は首に意識を集中する。

「今度は右の方、頼むぞ」とその部分に気持ちを集中して歩くんだって。

そうして左の肩で歩いたり、右の肩で歩いたり。

歩きながら肩を振ったりして、そこに精神を集中させる。

その間に別のところがみんな休んでいるっていうわけだ。

そのうち疲れてきたら、今度はバトンタッチして、
別のところに精神を集中して歩いていく。

そういうふうにやってたから、スピードが落ちることなく、
ずっと早足で行けたんだって。

老師は、ぼくが千日回峰行をやる時に、
参考にしたらいいと言ってこの話をしてくれた。

「おれもな、自分が回峰行をやるときに、この話を実行してやったんだけど、
一つだけできないことがあった」という。 >>>続きはこちらから

一日一生2.

From : 田渕裕哉(2023/04/08 07:28:24)

2023年4月8日(土)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。

事業の根幹は、オペレーション。
「品質を高く」「納期を守り」「顧客のニーズを満たす」
現場こそが事業の中核なのです。

実際の年齢よりもずいぶんお若く見えますねえとか、お肌がきれいですね、
どうしているんですか、とよく聞かれるけど、健康でいられるのは
毎日毎日、同じように暮らしているのがいいんじゃないかな。

だいたい朝の三時半から四時ごろ起きて、滝に入って顔を洗って、
バケツの水をずーっとお堂に配ってお清めをして、本堂に行ってお勤めをしている。

お客さんが来ればお相手したり、雑務などもして、夕方からお勤めして食事。

それから一、二時間ひと寝入りする。夜の零時半くらいまで、
あれこれ仕事して。またちょっと寝て・・・。

それを毎日毎日繰り返し、くるっくる、くるっくる、やってるんだよ。

食べる量は少ないかもしれないな。

一日二回、ソバや豆、野菜をちょっとずつ。間食はしない。

あまりお腹すかないの。お茶一杯飲めば一食したような感覚になっちゃう。

よく、みんなにね「そんな生活して、だいぶお金残したでしょう」
なんて言われるんだけど、それが、全然残んないんだよ。

うまいことできてんねえ。

「二度の千日回峰行を経てどんな変化がありましたか」とよく聞かれるけど、
変わったことは何もないんだよ。

みんなが思っているような大層なもんじゃない。

行が終わっても何も変わらず、ずーっと山の中を歩いているしな。

「比叡山での回峰行」というものでもって、大げさに評価されちゃってるんだよ。 >>>続きはこちらから

一日一生1.

From : 田渕裕哉(2023/04/07 06:29:46)

2023年4月7日(金)
おはようございます。今朝は西明石からお届けしています。

「ある」まずは、自分の現在地を知ること。
ある→する→なる
すると私たちは新たな自分がスタートします。
そして、次の「ある→する→なる」がはじまります。
この終わりなきサイクルを回し続けることが人生ゲームのポイント

行に入ると、毎朝毎朝、草鞋を履いて出て行く。

登りが10キロ、わりと平坦な道が10キロ、
下りが10キロの道を毎日ぐるぐる歩く。

そうして一日山を歩き通して帰ってくると、
草鞋がくたびれてボロボロになっている。

翌日はまた、新しい草鞋を履いていかないといけない。

それを、毎日毎日、繰り返していたら、ある時、草鞋が自分に見えてきたんだ。

草鞋はボロボロになっちゃった。もし自分が草鞋だったら、
今日でおしまいなんだなあって。

明日になるとまた新しい草鞋を履く。

それは、また生まれ変わるみたいだなあって。

一日が終わって、また生まれ変わる。

草鞋も人間も同じなんじゃないかなって。

山をトットコトットコ歩いている時は、動きの世界。

一日履いた草鞋を脱いで、お経を上げたり、
横になったりしている時は、静かな世界だ。

静かな世界が終わると、朝になり、また動きの世界が始まる。

動と静っていうのは背中合わせ。

動があるから、静があり、静があるから、動がある。

人生で置き換えるなら「動」というのは生きること。

「静」というのは死の世界。

生まれるから死んで、死ぬからまた生まれる。

今日の自分は草鞋を脱いだ時におしまい。 >>>続きはこちらから