一日一生4.

From : 田渕裕哉(2023/04/10 07:47:40)

2023年4月10日(月)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。

正しくやろうとせずに、愛着を大切にすれば、仕事への取り組む姿勢は変わる。
愛着は、あなたの人間としての証であり、愛着を仕事場にもちこめば、
あなたは職場で「人間」としていることができる。

「なぜ二度、千日回峰行をしたのですか」って聞かれて
「何もすることがなかったから」って答えると、
あきれられるんだけど、本当に他にやることがなかったの。

他にやることがあれば他のことやってたかもしれないけど。

新しいことを何か始めたってすぐにボロが出ちゃう。

「らしく」みせたって、背伸びしたって、焦ったって、あわてたって、
人間、自分の「地金」は必ず出てしまうものなんだよ。

ならば「これだ」と自分で思ったことを繰り返しやっているのが
いいんじゃないのって思った。

それでもう一度千日回峰行をしたの。

二度目も、ずーっとやっているうちに気が付いたらおしまいになっちゃった。

二度終わったので、それからは日本のあちこちや、海外の聖地を歩いている。

ずーっと同じようなことをやっているわけだな。

もちろん、物事には目標もあるしゴールもあるけど、
昨日何かが終わったからといって、突然、次の日に、
今までと全然違う新しい世界が開けるなんて、人生はそういうもんじゃないね。

でも何も変わらないようにみえても、自分自身はいつもいつも新しくなっている。

毎日毎日生まれ変わっているんだよ。一日だって同じ日はないしな

今日一日歩いた草鞋を脱ぐ。明日は新しい草鞋を履く。

今日の自分はもう今日でおしまい。明日また再生される。 >>>続きはこちらから

一日一生3.

From : 田渕裕哉(2023/04/09 06:50:35)

2023年4月9日(日)
おはようございます。今朝は新潟からです。

永続的な幸せとは「物質的な富」を貧欲に求めることを進んで放棄し、
「非物質的な富」に自分の意識を集中することから生まれる。
すなわち、愛や思いやり、優しさ、知性や貢献心など。

回峰行の師であった故・箱崎文応師が昔、子供のころに聞いたとい
小名浜の大泥棒の話をしてくれたことがある。

その大泥棒、なんと福島県の小名浜から夜な夜な宮城県の仙台まで
歩いて泥棒に行ってたんだって。

泥棒して、また仙台から小名浜に帰る、いったいどうやって歩いてるんだ?」
って聞かれたら「休み休みやってるから疲れないんだ」って説明したという。

どういうふうにうまく歩いたのかっていうと、右足、左足って、
体のいろんな部分を交代で意識しながら歩くんだって。

右が疲れてきたら左足、左が疲れてきたら右、という具合だね。

いよいよ両足がくたびれたら腰、その次は首に意識を集中する。

「今度は右の方、頼むぞ」とその部分に気持ちを集中して歩くんだって。

そうして左の肩で歩いたり、右の肩で歩いたり。

歩きながら肩を振ったりして、そこに精神を集中させる。

その間に別のところがみんな休んでいるっていうわけだ。

そのうち疲れてきたら、今度はバトンタッチして、
別のところに精神を集中して歩いていく。

そういうふうにやってたから、スピードが落ちることなく、
ずっと早足で行けたんだって。

老師は、ぼくが千日回峰行をやる時に、
参考にしたらいいと言ってこの話をしてくれた。

「おれもな、自分が回峰行をやるときに、この話を実行してやったんだけど、
一つだけできないことがあった」という。 >>>続きはこちらから

一日一生2.

From : 田渕裕哉(2023/04/08 07:28:24)

2023年4月8日(土)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。

事業の根幹は、オペレーション。
「品質を高く」「納期を守り」「顧客のニーズを満たす」
現場こそが事業の中核なのです。

実際の年齢よりもずいぶんお若く見えますねえとか、お肌がきれいですね、
どうしているんですか、とよく聞かれるけど、健康でいられるのは
毎日毎日、同じように暮らしているのがいいんじゃないかな。

だいたい朝の三時半から四時ごろ起きて、滝に入って顔を洗って、
バケツの水をずーっとお堂に配ってお清めをして、本堂に行ってお勤めをしている。

お客さんが来ればお相手したり、雑務などもして、夕方からお勤めして食事。

それから一、二時間ひと寝入りする。夜の零時半くらいまで、
あれこれ仕事して。またちょっと寝て・・・。

それを毎日毎日繰り返し、くるっくる、くるっくる、やってるんだよ。

食べる量は少ないかもしれないな。

一日二回、ソバや豆、野菜をちょっとずつ。間食はしない。

あまりお腹すかないの。お茶一杯飲めば一食したような感覚になっちゃう。

よく、みんなにね「そんな生活して、だいぶお金残したでしょう」
なんて言われるんだけど、それが、全然残んないんだよ。

うまいことできてんねえ。

「二度の千日回峰行を経てどんな変化がありましたか」とよく聞かれるけど、
変わったことは何もないんだよ。

みんなが思っているような大層なもんじゃない。

行が終わっても何も変わらず、ずーっと山の中を歩いているしな。

「比叡山での回峰行」というものでもって、大げさに評価されちゃってるんだよ。 >>>続きはこちらから

一日一生1.

From : 田渕裕哉(2023/04/07 06:29:46)

2023年4月7日(金)
おはようございます。今朝は西明石からお届けしています。

「ある」まずは、自分の現在地を知ること。
ある→する→なる
すると私たちは新たな自分がスタートします。
そして、次の「ある→する→なる」がはじまります。
この終わりなきサイクルを回し続けることが人生ゲームのポイント

行に入ると、毎朝毎朝、草鞋を履いて出て行く。

登りが10キロ、わりと平坦な道が10キロ、
下りが10キロの道を毎日ぐるぐる歩く。

そうして一日山を歩き通して帰ってくると、
草鞋がくたびれてボロボロになっている。

翌日はまた、新しい草鞋を履いていかないといけない。

それを、毎日毎日、繰り返していたら、ある時、草鞋が自分に見えてきたんだ。

草鞋はボロボロになっちゃった。もし自分が草鞋だったら、
今日でおしまいなんだなあって。

明日になるとまた新しい草鞋を履く。

それは、また生まれ変わるみたいだなあって。

一日が終わって、また生まれ変わる。

草鞋も人間も同じなんじゃないかなって。

山をトットコトットコ歩いている時は、動きの世界。

一日履いた草鞋を脱いで、お経を上げたり、
横になったりしている時は、静かな世界だ。

静かな世界が終わると、朝になり、また動きの世界が始まる。

動と静っていうのは背中合わせ。

動があるから、静があり、静があるから、動がある。

人生で置き換えるなら「動」というのは生きること。

「静」というのは死の世界。

生まれるから死んで、死ぬからまた生まれる。

今日の自分は草鞋を脱いだ時におしまい。 >>>続きはこちらから

毎日が小さな修行39.

From : 田渕裕哉(2023/04/06 06:39:17)

2023年4月6日(木)
おはようございます。今朝は博多からお届けしています。

目標を達成して得るものはさほど大したものではない。
目標を達成することで手に入れた自分自身の方がよっぽど大事だ。

私の師匠が大切にしていた言葉があります。

「一に勤行、二に掃除、三に追従、四に阿呆」という言葉です。

一と二はお坊さんの作務として基本中の基本、当たり前の勤めです

三の追従というのは、人が喜ぶことをすること。

相手の欠点を批判するのは簡単ですが、喜ぶようなことをするのは大変です。

そして、四の阿呆は素直になり切るということ。

たとえば「おまえは阿呆だね」といわれたら、にこにこして
「はい、阿呆です」といえるぐらい、自分を常に謙虚に置く。

そういう人は、阿呆になり切ることができます。

しかし、中途半端な人に「阿呆」というと「阿呆とは何事だ」と
怒り出してしまいます。

三、四となるにつれ難しくなっていきますが、人が喜ぶようなことをして、
自分が謙虚になり切ることはお坊さんの基本です。

この言葉が道場に入ると額に飾ってありました。

それを毎日読んで、どういう意味かなと、
深い世界の中で自分を深めていくわけです。

日々精進し、挑戦する先に、それらが自然と身についた自分が見つかります。

自分がやらなければならないことにプラスアルファして
人を喜ばせることを考えると、今日より明日、明日より明後日と
日を追うごとに、人格は高まっていきます。

基本は同じことを同じように繰り返すこと。

情熱を忘れずに、日々蓄積していくことです。 >>>続きはこちらから

毎日が小さな修行38.

From : 田渕裕哉(2023/04/05 06:11:19)

2023年4月5日(水)
おはようございます。今日は鹿児島に行きます!

最終的になりたい姿がビジョン。
そこに向かっていくためにクリアする課題が目標。

岐路に立たされたとき、人間は辛抱が肝心です。

辛抱が足りない人間は何に対しても中途半端な生き方しかできません。

石の上にも三年といいますが、一度石にしばみついたら
意地でも食らいついて離さないぐらいの心構えがなければなりません。

たとえば、正座をしなさいといわれたら、何時間でも座る。

足がしびれてちぎれそうになっても、正座し続けるところに意義があります。

その精神力が万事に通じていくのです。

自分の人生は自分の心で変えていくしかありません。

自分の心も自分の心でコントロールしていくしかありません。

そのためには、常に感謝の気持ちを持つことです。

自分の心地よいときだけ感謝するのではなく、
崖っぷちに立たされたときこそ心からの感謝の気持ちが湧き出る人が本物です。

普通の生活をしていると、自分自身を極限の世界に
追い込むことはあまりないでしょう。

しかし、考え方、とらえ方を変えれば、朝起きてから
夜寝る前までの間にしなければならない仕事がたくさん見つかります。

一日の中で自分がやらなければならない勤めは決まっています。

やってはいけないことをやることは、
やらなければならない勤めを疎かにすることです。 >>>続きはこちらから

毎日が小さな修行37.

From : 田渕裕哉(2023/04/04 06:36:14)

2023年4月4日(火)
おはようございます。今日も素晴らしい天気の千葉からです。

あなたがどう考えようと、三日月はもともと満月。
大切なのは、満月だと「思おう」とするのではなく、
「あ、やっぱり満月だった」という気づきの量を増やすこと。

行を終えてから十数年が経ちました。

日々の生活をしている中で、私も一つ、
さらに深い世界の中で見えてくるものがありました。

今年の四月一日に、叔父が癌宣告を受けました。

余命十二ヶ月と伝えられました。

抗がん剤治療をして、胃を切除した結果の余命宣告でした。

叔父は自分の予後をある程度覚悟しており、
うろたえることもなく「そうですか」と受け入れました。

本当ならば何もしないで静かに臨終を迎えたいといっていましたが
叔父はすでに通院していたこともあり、現代の医療に従って治療す
ことになりました。

四月九日の入院と同時に原因不明の高熱が出ました。

日に日に弱っていく叔父を見て、自分が四無行
(九日間、断食、断水、不眠を続ける)をさせていただいた
ときの健康状態、精神状態に近いことに気づき、
叔父の立場になって心から寄り添うことができました。

私は叔父の余命が少ないことも知っていました。

しかし、叔父はもう一年は生きるという強い意志を持っていました

その気持ちだけは萎えさせたくないなと思い、毅然として、
かつ淡々と叔父に寄り添っていました。

叔父は日に日に体力を消耗して死に近づいていました。

そのときに、行の意味がわかったような気がしました。

自分自身、行を通じて叔父と同じような状態を経験していたために
的確なアドバイスができたのです。 >>>続きはこちらから

毎日が小さな修行36.

From : 田渕裕哉(2023/04/03 06:48:47)

2023年4月3日(月)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。1週間の始まりですね!

長く立ち続けている人ほど、適度に回復をとっている。
大事なのは、我慢強さではなく、回復上手になること。

たとえば、自分が平らな丘にいるとします。

その崖っぷちまで行くと、崖の少し下に花が咲いていました。

その花は、いくら高性能の望遠鏡を使っても崖にさえぎられて見ることができません。

実際に、その崖の縁まで自分の足で歩いて行かなければ見ることができないのです。

このように、自ら体験しなければわからない、見えてこない世界があります。

行の世界でたとえると、私が山道を歩いて感じた世界観と、
別のもう一人が同じ道を歩いて感じる世界観は全く違います。

物事の受け取り方、とらえ方が違うのです。

これは非常に面白いことです。

一生懸命歩いても、手を抜いて歩いても、一日は一日。

しかし、自分自身がせっかく尊い行を体験させていただいているのに、
行じるときの気持ちが整っていないと正しい道理を掴めず、
せっかくいただいたチャンスをものにできずもったいない結果になってしまいます。

修行は、首までしっかり浸り切って自分自身を見つめ直して成長につなげるものです。

一つの物事をどのように生かすかは、その人の世界観の問題です。

ですから、同じ修行を十人がしても、成長の段階は全く変わってきます。

一般社会で仕事や学問に取り組む場合も同じでしょう。

結果は取り組む人の心のあり方によって、結果は全く違うものになります。 >>>続きはこちらから

毎日が小さな修行35.

From : 田渕裕哉(2023/04/02 06:14:09)

2023年4月2日(日)
おはようございます。今朝も小鳥のさえずりが聞こえる千葉からです。

メッセージをシンプルにしよう。抽象的ではなく具体的に。
消費者や受け手の人がどう思うかを聞きに行こう。
「あなた」がわかりやすいではなく「相手」がわかりやすいもの。

若い頃はたいてい我が強いものです。

私の師匠も、若くて元気のいい修行僧が入ってくると
「若い頃は少々やんちゃでなければならない。

多少我が強いぐらいのほうがいい。

その我が強ければ強いほど、心が転じたときには修行に向かう力が強いものだ」
といわれていました。

食べたいものを食べる、着たいものを着る、そういうものだけが欲ではありません。

自分が成長しようとするのも、一つの欲です。

すべて欲がなくなってしまったら、成長しよう、
努力しようとする気持ちもなくなります。

物欲や食欲といった我欲ではなく、本質的に一気るための努力という欲を持ち、
それを真理に向かう芯の強さにエネルギーを転換することが大切なのです。

これが、禍転じて福となすという生き方です。

何があっても決して人を恨まず、憎まず、妬まず、光ある世界に、
常に明るいところで生きていく。

我の強さを芯の強さに変えていくのです。

年を重ねるごとに、いろんな経験をします。その経験の中から少しずつ、
少しずつ反省をして、人は丸くなっていきます。

丸くなってくれば、光の方向へ転がっていきます。

「私が」という角があるうちは、人生は好転していきません。

運も縁も広がっていきません。

自分の心が変わったとき、初めて周りの環境すべてが変わっていきます。

それは、目に見える世界が変わるわけではありません。

自分の心が変わるのです。 >>>続きはこちらから

毎日が小さな修行34.

From : 田渕裕哉(2023/04/01 07:45:18)

2023年4月1日(土)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。
4月が始まりました!フレュシュな気分でスタートです!

人にしてもらいたい行動があったら、
それをするのが羨ましがられるようにあなたがやるといい。

修行道場には仏様がいて、師匠がいます。

そこで生活をさせていただく修行僧・雲水たちは、気まま、わがままな
ところが残っていて、まだ、悟り切っていない不完全な人たちの集まりです。

そんな中で生活をしていると、当然ながら己の我が出てしまいます

少し言葉を荒げた言い合いをしてしまうこともあります。

しかし、道場では、たとえ喧嘩をしても世間のようにもめることはありません。

一つのルールがあるからです。

それは、自分の心の中に我が出ても、自己を主張したいと思っても
目上の人に対しては絶対にその感情を表してはいけないというルールです。

年長者あるいは自分よりも先に入った先輩には、
どんな理不尽をいわれても「はい」と答えなければなりません。

それも常に気持ちの良い「はい!」という返事でなくてはいけません。

何があっても、決して面白くない感情を表情に表したり
することができない決まりです。

ときには、師匠がわざと理不尽なことをいう場合があります。

また、仏様がそういう環境をつくってくださる場合もあります。

そうやって、自我をへし折ってくださるのです。

しかし、百ある自我のうち九十九は他人がへし折ってくれても、
最後の一本は自分の手でへし折らなければなりません。

しかし、この最後の一本がなかなか折れないのです。

この我をとるのが修行です。

何とか悟りたいと強く思い、失敗を繰り返しながら何度も何度も
自己調整を繰り返しているうちに、ある日、突然その自我がとれるときがきます。 >>>続きはこちらから