毎日が小さな修行39.

From : 田渕裕哉(2023/04/06 06:39:17)

2023年4月6日(木)
おはようございます。今朝は博多からお届けしています。

目標を達成して得るものはさほど大したものではない。
目標を達成することで手に入れた自分自身の方がよっぽど大事だ。

私の師匠が大切にしていた言葉があります。

「一に勤行、二に掃除、三に追従、四に阿呆」という言葉です。

一と二はお坊さんの作務として基本中の基本、当たり前の勤めです

三の追従というのは、人が喜ぶことをすること。

相手の欠点を批判するのは簡単ですが、喜ぶようなことをするのは大変です。

そして、四の阿呆は素直になり切るということ。

たとえば「おまえは阿呆だね」といわれたら、にこにこして
「はい、阿呆です」といえるぐらい、自分を常に謙虚に置く。

そういう人は、阿呆になり切ることができます。

しかし、中途半端な人に「阿呆」というと「阿呆とは何事だ」と
怒り出してしまいます。

三、四となるにつれ難しくなっていきますが、人が喜ぶようなことをして、
自分が謙虚になり切ることはお坊さんの基本です。

この言葉が道場に入ると額に飾ってありました。

それを毎日読んで、どういう意味かなと、
深い世界の中で自分を深めていくわけです。

日々精進し、挑戦する先に、それらが自然と身についた自分が見つかります。

自分がやらなければならないことにプラスアルファして
人を喜ばせることを考えると、今日より明日、明日より明後日と
日を追うごとに、人格は高まっていきます。

基本は同じことを同じように繰り返すこと。

情熱を忘れずに、日々蓄積していくことです。 >>>続きはこちらから

毎日が小さな修行38.

From : 田渕裕哉(2023/04/05 06:11:19)

2023年4月5日(水)
おはようございます。今日は鹿児島に行きます!

最終的になりたい姿がビジョン。
そこに向かっていくためにクリアする課題が目標。

岐路に立たされたとき、人間は辛抱が肝心です。

辛抱が足りない人間は何に対しても中途半端な生き方しかできません。

石の上にも三年といいますが、一度石にしばみついたら
意地でも食らいついて離さないぐらいの心構えがなければなりません。

たとえば、正座をしなさいといわれたら、何時間でも座る。

足がしびれてちぎれそうになっても、正座し続けるところに意義があります。

その精神力が万事に通じていくのです。

自分の人生は自分の心で変えていくしかありません。

自分の心も自分の心でコントロールしていくしかありません。

そのためには、常に感謝の気持ちを持つことです。

自分の心地よいときだけ感謝するのではなく、
崖っぷちに立たされたときこそ心からの感謝の気持ちが湧き出る人が本物です。

普通の生活をしていると、自分自身を極限の世界に
追い込むことはあまりないでしょう。

しかし、考え方、とらえ方を変えれば、朝起きてから
夜寝る前までの間にしなければならない仕事がたくさん見つかります。

一日の中で自分がやらなければならない勤めは決まっています。

やってはいけないことをやることは、
やらなければならない勤めを疎かにすることです。 >>>続きはこちらから

毎日が小さな修行37.

From : 田渕裕哉(2023/04/04 06:36:14)

2023年4月4日(火)
おはようございます。今日も素晴らしい天気の千葉からです。

あなたがどう考えようと、三日月はもともと満月。
大切なのは、満月だと「思おう」とするのではなく、
「あ、やっぱり満月だった」という気づきの量を増やすこと。

行を終えてから十数年が経ちました。

日々の生活をしている中で、私も一つ、
さらに深い世界の中で見えてくるものがありました。

今年の四月一日に、叔父が癌宣告を受けました。

余命十二ヶ月と伝えられました。

抗がん剤治療をして、胃を切除した結果の余命宣告でした。

叔父は自分の予後をある程度覚悟しており、
うろたえることもなく「そうですか」と受け入れました。

本当ならば何もしないで静かに臨終を迎えたいといっていましたが
叔父はすでに通院していたこともあり、現代の医療に従って治療す
ことになりました。

四月九日の入院と同時に原因不明の高熱が出ました。

日に日に弱っていく叔父を見て、自分が四無行
(九日間、断食、断水、不眠を続ける)をさせていただいた
ときの健康状態、精神状態に近いことに気づき、
叔父の立場になって心から寄り添うことができました。

私は叔父の余命が少ないことも知っていました。

しかし、叔父はもう一年は生きるという強い意志を持っていました

その気持ちだけは萎えさせたくないなと思い、毅然として、
かつ淡々と叔父に寄り添っていました。

叔父は日に日に体力を消耗して死に近づいていました。

そのときに、行の意味がわかったような気がしました。

自分自身、行を通じて叔父と同じような状態を経験していたために
的確なアドバイスができたのです。 >>>続きはこちらから

毎日が小さな修行36.

From : 田渕裕哉(2023/04/03 06:48:47)

2023年4月3日(月)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。1週間の始まりですね!

長く立ち続けている人ほど、適度に回復をとっている。
大事なのは、我慢強さではなく、回復上手になること。

たとえば、自分が平らな丘にいるとします。

その崖っぷちまで行くと、崖の少し下に花が咲いていました。

その花は、いくら高性能の望遠鏡を使っても崖にさえぎられて見ることができません。

実際に、その崖の縁まで自分の足で歩いて行かなければ見ることができないのです。

このように、自ら体験しなければわからない、見えてこない世界があります。

行の世界でたとえると、私が山道を歩いて感じた世界観と、
別のもう一人が同じ道を歩いて感じる世界観は全く違います。

物事の受け取り方、とらえ方が違うのです。

これは非常に面白いことです。

一生懸命歩いても、手を抜いて歩いても、一日は一日。

しかし、自分自身がせっかく尊い行を体験させていただいているのに、
行じるときの気持ちが整っていないと正しい道理を掴めず、
せっかくいただいたチャンスをものにできずもったいない結果になってしまいます。

修行は、首までしっかり浸り切って自分自身を見つめ直して成長につなげるものです。

一つの物事をどのように生かすかは、その人の世界観の問題です。

ですから、同じ修行を十人がしても、成長の段階は全く変わってきます。

一般社会で仕事や学問に取り組む場合も同じでしょう。

結果は取り組む人の心のあり方によって、結果は全く違うものになります。 >>>続きはこちらから

毎日が小さな修行35.

From : 田渕裕哉(2023/04/02 06:14:09)

2023年4月2日(日)
おはようございます。今朝も小鳥のさえずりが聞こえる千葉からです。

メッセージをシンプルにしよう。抽象的ではなく具体的に。
消費者や受け手の人がどう思うかを聞きに行こう。
「あなた」がわかりやすいではなく「相手」がわかりやすいもの。

若い頃はたいてい我が強いものです。

私の師匠も、若くて元気のいい修行僧が入ってくると
「若い頃は少々やんちゃでなければならない。

多少我が強いぐらいのほうがいい。

その我が強ければ強いほど、心が転じたときには修行に向かう力が強いものだ」
といわれていました。

食べたいものを食べる、着たいものを着る、そういうものだけが欲ではありません。

自分が成長しようとするのも、一つの欲です。

すべて欲がなくなってしまったら、成長しよう、
努力しようとする気持ちもなくなります。

物欲や食欲といった我欲ではなく、本質的に一気るための努力という欲を持ち、
それを真理に向かう芯の強さにエネルギーを転換することが大切なのです。

これが、禍転じて福となすという生き方です。

何があっても決して人を恨まず、憎まず、妬まず、光ある世界に、
常に明るいところで生きていく。

我の強さを芯の強さに変えていくのです。

年を重ねるごとに、いろんな経験をします。その経験の中から少しずつ、
少しずつ反省をして、人は丸くなっていきます。

丸くなってくれば、光の方向へ転がっていきます。

「私が」という角があるうちは、人生は好転していきません。

運も縁も広がっていきません。

自分の心が変わったとき、初めて周りの環境すべてが変わっていきます。

それは、目に見える世界が変わるわけではありません。

自分の心が変わるのです。 >>>続きはこちらから

毎日が小さな修行34.

From : 田渕裕哉(2023/04/01 07:45:18)

2023年4月1日(土)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。
4月が始まりました!フレュシュな気分でスタートです!

人にしてもらいたい行動があったら、
それをするのが羨ましがられるようにあなたがやるといい。

修行道場には仏様がいて、師匠がいます。

そこで生活をさせていただく修行僧・雲水たちは、気まま、わがままな
ところが残っていて、まだ、悟り切っていない不完全な人たちの集まりです。

そんな中で生活をしていると、当然ながら己の我が出てしまいます

少し言葉を荒げた言い合いをしてしまうこともあります。

しかし、道場では、たとえ喧嘩をしても世間のようにもめることはありません。

一つのルールがあるからです。

それは、自分の心の中に我が出ても、自己を主張したいと思っても
目上の人に対しては絶対にその感情を表してはいけないというルールです。

年長者あるいは自分よりも先に入った先輩には、
どんな理不尽をいわれても「はい」と答えなければなりません。

それも常に気持ちの良い「はい!」という返事でなくてはいけません。

何があっても、決して面白くない感情を表情に表したり
することができない決まりです。

ときには、師匠がわざと理不尽なことをいう場合があります。

また、仏様がそういう環境をつくってくださる場合もあります。

そうやって、自我をへし折ってくださるのです。

しかし、百ある自我のうち九十九は他人がへし折ってくれても、
最後の一本は自分の手でへし折らなければなりません。

しかし、この最後の一本がなかなか折れないのです。

この我をとるのが修行です。

何とか悟りたいと強く思い、失敗を繰り返しながら何度も何度も
自己調整を繰り返しているうちに、ある日、突然その自我がとれるときがきます。 >>>続きはこちらから

毎日が小さな修行33.

From : 田渕裕哉(2023/03/31 06:54:55)

2023年3月31日(金)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。

仕事が楽しいのであれば、それは「楽しくなる要素」が含まれているから。
受け身ではなく、能動的に自ら仕事をデザインする力を高めていこう!

師匠のいうことをよく聞き、お寺の規律に従い生活していると、
やがて穏やかな気持ちに到達できるのですが「なんで、どうして」と、
あらゆるものにとらわれているもう一人の自分がいると、
前に進めず、後ろに戻れず、という状態に陥ります。

このどちらにも行けない状態を「迷う」といいます。

その苦しみの海の中で本来の生きるべき道を悟るまで、
私たちの人生の苦しみは続きます。

そうした苦しみの中で、歯を食いしばって修行をしていくのです。

修行というのは、三百六十五日、朝起きてから夜寝るまで、
休みなく同じことを繰り返します。

年が巡り、後輩が入門してくると自分の昔を思い出します。

その姿を見て、我の強い自分をあらためて反省します。

しかし、変わろうとしても、なかなか変われない自分がいます。

私たちお坊さんは、人生の先生にならなければならない立場です。

そのためには、捨て切る、忘れ切る、許し切ることが真理に向かっ
進む道であることをよく理解し、それを実践できなければなりません。

修行道場で勉強させていただいて、人生とはこういうものだと悟ったら、また
各地に散らばって、縁のあった人に真理の方向へ進むためのヒントを教えていく。

そういう存在にならなければいけません。

三度三度のご飯に、おやつがあって、雨露をしのげる場所がある。

そういう場所で生活をしていると、ついつい気まま、わがままが出てしまいます。 >>>続きはこちらから

毎日が小さな修行32.

From : 田渕裕哉(2023/03/30 07:28:20)

2023年3月30日(木)
おはようございます。今朝は東京のホテルからお届けしています。

成長は、まず「できなかったことができるようになる」というステップ。
そして「それを1時間でできるようになる」というステップを踏む
ハイパフォーマーは「もっと短い時間でできるようになる」に取り組む人。

生まれて初めて自転車に乗れたときのことを思い出してください。

何度も転んで膝をすりむいて、怪我をして血を流しても練習を続けるうちに、
ある日突然、ふっと自転車に乗れるようになります。

その感覚を覚えたならば、一生涯忘れることはありません。

しかし、そのときの感覚を言葉や文字で誰かに伝えてくださいといわれたら、
伝えられるでしょうか。

感覚というものは、言葉や文字では表現できないものです。

それはその人の人生の経験においてしか理解できないからです。

自らが人生の中で積んだいろいろな経験が自分自身の尺の長さとなります。

人は誰でも、その尺の長さの中でしか物事を理解することができないのです。

だからこそ実践をして、自分で経験を積むことが大事です。

そうすることで初めて、他人に優しい言葉をかけるのも、
笑顔をお届けするのも、誰のためでもない、自分自身のためであるとわかるのです。

「正直者はバカを見る」とか「正直者は損をする」といいますが、
そんなことは決してありません。

実践を続けていくと、人が見ても見ていなくても、
いつも心にあられる神仏が見ていると思うような生き方ができるようになります。

「こんなことをしたら神仏に笑われるな、神仏を悲しませてしまうような」と思い、
真面目に真っ直ぐに生きて行こうと誓ったならば、歯を食いしばり
岩にしがみついてでも、その生き方を成就してほしいのです。 >>>続きはこちらから

毎日が小さな修行31.

From : 田渕裕哉(2023/03/29 06:57:09)

2023年3月29日(水)
おはようございます。久々の千葉からです。
でも今日も1泊の出張です。

大事なのは決断の結果よりも、どういうプロセスで決めたのかという「決断の過程」。
つまり思考や議論は、、センスや権威で運営されるのではなく、一連のステップに
基づいて動かしていくことが重要。そこに一貫性を持とう!

「感謝」「反省」「敬意」の三つをよく実践していくために大切なのは、
毎日同じことを同じように繰り返していくことです。

お坊さんの修行ならば、師匠から「ここに真っ直ぐに花を生けるように」といわれたら、
三百六十五日真っ直ぐに生き続けなければなりません。

この同じことを同じように繰り返していく中に、見えてくるものがあります。

今の例でいうと三百六十五日の三百六十四日にほんの少し曲がって
花を生けてしまったならば、今まで積んできた功徳が水の泡になってしまいます。

皆さんも同じことです。

自分の嫌いな人に三百六十五日笑顔を届けようと思って続けてきたのに、
最後の一日で冷たい言葉をかけて相手に嫌いな思いをさせてしまったら、
それまでの三百六十四日が水の泡になってしまうのです。

真っ直ぐに立てられないのは、自分の心が曲がっているからです。

真っ直ぐに立てようと思えば、目印が何もなくても「ここだ」という場所に
きちっと花を置くことができます。

真っ直ぐに立てようと思う強い意志があるからできるのです。

修行の世界では、万が一、花が少しでもずれていたりすると、必ず誰かに叱られます。

しかし、この叱られたときこそ、自分が成長できるチャンスです。 >>>続きはこちらから

毎日が小さな修行30.

From : 田渕裕哉(2023/03/28 05:12:43)

2023年3月28日(火)
おはようございます。今朝も大阪からお届けしています。
今日、東京に戻ります。

心のこもった挨拶は、相手を自分の家族だと思い、また「有難い」
有ることがなかなかないことを考えること。
挨拶に心が込められると、挨拶を通じて、人は磨かれる!

「絆」私の言葉でいえば、思いやりの心や優しい言葉を相手に
どのように表現するか、ということ。

誰しも根っこの部分には優しい心があるのですが、この人には表現できるけど、
この人にはできないと思ってしまう。

誰にも分け隔てなく優しさを表現できれば、自分も楽に生きていけますし、
皆幸せになれるとわかっていても、それがなかなか実行できないのです。

だから、いろいろな方が私にこう聞いてきます。

「頭ではわかるのですが、実際にどうしたらいいのでしょうか?」

答えはすでに出ているのに、最後に「何か質問のある人?」という
手を挙げて「どうやったらいいかわからないんです」というわけです。

なぜわからないのでしょうか?

日本人である私たちのほとんどは一日三度のご飯が食べられて、
屋根のある場所で寝ることができます。

人間生活の最低限の部分は満たされています。

ところが、そうなると、人間の心は自己中心的になってきて、
ままならないことをどうにかしたいという、贅沢な心が芽生えてきます。

お坊さんというのは、そういう気持ちが起きないように、
あえて厳しい環境の中に身を置いて修行をするわけです。

そういう世界で生きてきた私から三つのアドバイスがあります。

いつも申しているのですが、とても大事なことです。 >>>続きはこちらから