From : 田渕裕哉(2025/09/14 06:15:33)
2025年9月14日(日)
おはようございます。今朝もさわやかな朝の千葉からです。
絶えずあなたを何者かに変えようとする世界の中で、自分らしくあ
それがもっとも素晴らしい偉業である。
エマーソン
日本の歴史のなかで、ナンバーワンのベストカップルって誰だろう
私は、宇喜多秀家&豪姫を選びます。
豪姫は、豊臣秀吉が大切に育てた養女です。
豊臣秀吉は、子どもがなく、親友の前田利家から、生後間もない彼
四女を養女に迎えます。
そして秀吉とその妻・ねねとふたりで大切に豪姫を養います。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/09/13 06:27:49)
2025年9月13日(土)
おはようございます。今朝は恵みの雨の千葉からです。
どうやって生きるかなんてことは、誰も他人に教えられないよ。
それは、自分自身で見つけるものだ。
ボブ・マーリー
福沢諭吉といえば、当時の日本人の10人に1人が読んだという
大ベストセラー「学問のすすめ」が有名です。
その冒頭の一節は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず
と伝えり」
「と伝えり」は「と、言われている」という意味で、諭吉は「学問
を著すにあたって、アメリカ独立宣言を参考にしたと伝えられてい
英文を訳すわけですから、当然、万次郎のすすめで購入したウェブ
辞典が大活躍したことでしょう。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/09/12 07:53:52)
2025年9月12日(金)
おはようございます。今朝もさわやかな朝の千葉からです。
悲観主義者は風にうらみを言う。
楽観主義者は風が変わるのを待つ。
現実主義者は、帆を動かす。
ウィリアム・アーサー・ウォード
龍馬の船中八策は、明治天皇が示した「五箇条の御誓文」のもとに
なったと言われていますが、日本から出たことがない龍馬が、
このような自由で民主的な国家の青写真を持っていたのは、
奇跡と言うほかありません。
これも河田小龍を経由して、万次郎から龍馬に受け継がれた遺産
と言っていいでしょう。
その後、万次郎は、土佐の藩校の教授に就任。
そのときの教え子のひとりが、三菱の創設者・岩崎弥太郎です。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/09/11 06:39:41)
2025年9月11日(木)
おはようございます。今朝はさわやかな朝の千葉からです。
人生は道路のようなものだ。
一番の近道は、たいてい一番悪い道だ。
フランシス・ベーコン
土佐では、絵師・河田小龍が取り調べという名目のもと、万次郎と
共にして、万次郎から英語を教わりながら。、少しずつ西洋事情を
していきました。
後に、この河田小龍のもとに、ひとりの若い男が出入りするように
その男は、小龍を経由して万次郎から伝え聞いたアメリカの話に感
その若き男の名前を坂本龍馬といいます。
商人の血をひく龍馬は、合理的なアメリカの考え方に感動します。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/09/10 05:19:51)
2025年9月10日(水)
おはようございます。今朝は博多からお届けしています。
今日は熊本でセミナーです。
尊厳を保つためには、金は必ずしも必要ではない。
ガンジー
船長のウィリアム・H・ホイットフィールドは、万次郎をまるで我
かわいがり、鎖国で日本への帰国を許されなかった万次郎をアメリ
教育を受けさせることにしました。
ある日、自分の所属する教会に万次郎を連れて行くと、その教会は
ことを理由に万次郎を受け入れてくれません。
すると船長は、その教会と絶縁し、万次郎を受け入れてくれる教会
したのです。
アメリカ人が、異国の少年のためにわざわざ宗旨替えをする。
船長の万次郎への思いが、なみなみならぬものであったことがわか
From : 田渕裕哉(2025/09/09 04:09:42)
2025年9月9日(火)
おはようございます。今朝もさわやかな朝の千葉からです。
毎日を生きよ。
あなたの人生が始まった時のように。
ゲーテ
志ある者同士は、どんなに離れていても、目に見えない糸でちゃん
そのことを、中浜万次郎の人生は見事に教えてくれます。
土佐(高知県)の漁師の子として生まれた万次郎は、14歳のとき
しかし、嵐にのまれ遭難。空腹と寒さの限界に耐えること7日目、
でもそこは、八丈島からさらに300キロも南に位置する絶海の孤
From : 田渕裕哉(2025/09/08 06:36:59)
2025年9月8日(月)
おはようございます。今朝もさわやかな朝の千葉からです。
今日は福島でセミナーです。
「できること」が増えるより、「楽しめること」が増えるのが、い
斎藤茂太
小山評定によって、家康は上杉討伐を中止し、上方に引き返して三
西軍と戦うことが決まったのですが、この一豊の申し出のおかげで
石田三成と戦うための通り道となる東海道筋の城主たちは、ことご
差し出しました。
これによって、家康は「誰かが裏切るのではないか」という懸念を
なく、安心して関ヶ原へと向かうことができたのです。
実はこの段階で、戦う前に、関ヶ原の勝負はついていた。
関ヶ原の勝利の立役者が山内一豊であることを、家康はわかってい
その感謝の証しが、土佐20万石というわけです。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/09/07 07:49:21)
申し訳ございません。昨日と今日のメルマガを間違えて逆に送って
今日のメルマガが金曜日の続きで、昨日のメルマガが今日の続きに
おはようございます。今朝もさわやかな朝の千葉からです。
人間には不幸か、貧乏か、病気が必要だ。
でないと人間はすぐに思いあがる。
ツルゲーネフ
実のところ、彼らは、このまま家康の東軍に残るべきか、
三成の西軍につくべきか迷っていました。
東軍につくことが、豊臣秀吉の遺児・秀頼に背くことに
なるのではないかという後ろめたさ。
さらには、大坂にいる妻子が、三成率いる西軍に人質として
とられてしまうのではないかという不安が大きかったからです。
軍議が始まると、一豊は、東軍に残ることを表明しました。
しかし、彼の発言は、それだけにとどまらず、なんと自分の
居城である掛川城を、家康に無償で提供すると申し出たのです。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/09/06 07:48:10)
2025年9月6日(土)
おはようございます。今朝もさわやかな朝の千葉からです。
人生はロマン。
自分は不幸だと悩むのではなく、試練を与えられた物語の主人公だ
美輪明宏
山内一豊のように、小さいながらも一城の主ともなれば「家」の存
戦況がどちらに転んでも家を残せるように手を打つのが常識です。
ましてや、恩もない家康と心中するような選択はしない。
でも、このとき、山内一豊は、自分の居城と領土を家康に提供する
まるで家康の忠実な家臣になったような、あり得ない行動に出たの
もともと山内一豊は、加藤清正や福島正則のような豪傑でもなけれ
石田三成のような知将でもない、律義さが取り柄の地味な武将でし
ただ、一豊には、強い味方がいたのです。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/09/05 07:14:13)
2025年9月5日(金)
おはようございます。今朝は恵みの雨の千葉からです。
竹にはフシがある。
そのフシがあるからこそ、竹は雪にも負けない強さを持つのだ。
本田宗一郎
土佐藩の初代藩主、山内一豊です。
山内一豊は、関ヶ原の戦いの功により、掛川6万石から、
一躍土佐20万石を拝します。
領地が3倍にふくらんだのです。
関ヶ原の戦いで、さぞや華々しい大活躍をしたと思いきや、違いま
山内家は関ヶ原の戦いの最中、結局は一発も撃たずに終わった敵方
毛利家に対して備えを務めただけなので、注目するような戦功なん
何もなかったんです。
それなのに、なぜ領地が3倍に? >>続きはこちらから
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