From : 田渕裕哉(2025/03/02 06:38:08)
2025年3月2日(日)
おはようございます。今朝もいい天気の千葉からです。
指導者の心得1.
指導者は人、物すべてをあるがままにみとめなくてはならない。
死ぬことだけが、真に生きることを生み出す。
死に狂いとは、このことを言う。
「死は、不死の始まりである」そう言ってロべスピエール
は死んだのだ。
ここには死が生であり、生がそのまま死であることの
人生的真理が潜んでいる。
善悪を考え過ぎる者に、体当たりは出来ない。
自分が悪人として死することも辞さない人間だけに、
体当たりは断行できるのである。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/03/01 07:44:06)
2025年3月1日(土)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。
僕たちは命を、羽のように軽いものだと思っている。
けれどもそれは命を粗末にしているという意味ではなくて、
僕たちは命を羽のように軽いものとして愛しているということだ。
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」の第一戒が一つの
流体エネルギーと化して、毎日毎日、朝から晩まで自己の中に
浸潤して来なければならない。
この言葉を流体と感ずれば、その内容は自己の生命の内部に
必ず浸潤して来る。
そうなれば体当たりが楽しくて仕方がない状態が現出するのだ。
我々は、その状態を創るまでの過程を鍛錬と呼んでいるに違いない
私は宇宙の本質は「暗黒流体」だと思っている。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/02/28 06:48:39)
2025年2月28日(金)
おはようございます。今朝も博多からお届けしています。
これからはもう物事をあんまり複雑に考えるのは止しになさるんで
人生も政治も案外単純浅薄なものですよ。
もっともいつでも死ねる気でなくては、そういう心境にはなれませ
生きたいという欲が、すべての物事を複雑怪奇に見せてしまうんで
私の人生は、この「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」
という思想の地上的展開に過ぎない。
それ以外に、私は何も望まずまた何を得ようとは思わない。
この思想の人生的実行を目指して生きることだけしかない。
死ぬために生きることは、私の人間としての生のすべてである。
死の覚悟をもって生きることだけが、本当の人間のための
生命燃焼を創る。
体当たりの人生は、死の覚悟なくして決して出来るものではない。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/02/27 06:08:09)
2025年2月27日(木)
おはようございます。今朝は博多からお届けしています。
生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではなか
それほどに差は無いような気がした。
武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。
この言葉には葉隠に宿る魂のすべてが降り注いでいる。
それはまた、私の全意見であり全科学である。
また全芸術であり、全行動であり、全過去であり、
また全未来でもあるのだ。
この思想が「葉隠」の初めにあることに、私は表現できぬ
ほどの喜びを感ずる。
これほどの勇気ある言葉が、この世に存在するだろうか。
この言葉のためだけに、私は死ぬことが出来る。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/02/26 05:07:00)
2025年2月26日(水)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。今日から九
自分の本質と世界の本質を、そこまで強固に結びあわせる
ことができたら、素晴らしいと思わないか?
それは世界の秘密のカギを、この手に握ったということじゃないだ
我々は、自己の生命の本体である自分の運命に、死ぬ気で
ぶち当たらなければならない。
この死ぬ気で運命にぶつかることによって生ずる衝撃が、
先に述べた核融合エネルギーの燃焼を促す。
死という動かし難い一点に向かうことによって、却って、
我々の生命の中に熱い炎が生まれて来るのだ。
我々の生命がもつ根源的実在とも言えよう。
その一点に、命懸けでぶつかる。
それは根源的矛盾との対面となろう。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/02/25 08:01:02)
2025年2月25日(火)
おはようございます。今朝も寒い朝の千葉からです。
死は生の自然の継続である。
もっともよき生の後にもっとも悪しき死が来る理由がない。
死に対する最良の準備が最もよく生きることに在るは疑ひがない。
「夢見ることを止めた時、その青春は終わるのである」
我々は、自己の生命が高貴で美しいものを志向する限り、
青春の中に生き続けている。
超越とは、自己を乗り越えることである。
そこに人生の勝ちを見出す限り、その人は果てしない青春
の真っ只中に生き切ることとなるだろう。
ここに言う自己の本当の生命燃焼とは、この超越的融合の
ことを言っている。
それは我々の日常を乗り越え、我々に自己存在の永遠性を
指し示してくれる。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/02/24 06:58:22)
2025年2月24日(月・祝)
おはようございます。今朝もいい天気の千葉からです。
それだから、走るのだ。
信じられているから走るのだ。
間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。
宇宙から与えられた使命とも言える我々の存在理由という一点に向
我々の生命は奮い立つのである。
そして永遠の彼方において、人間の宇宙的使命が終わるとき、我々
もまた燃え尽きるのだ。
葉隠のもつ永遠燃焼という思想は、理解しようと思えば自己が破壊
それは理解するものではない。
我々が自己の親を慕うように、ただひたすらに慕うのだ。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/02/23 06:31:55)
2025年2月23日(日)
おはようございます。今朝も寒い朝の千葉からです。
自分には幸福も不幸もありません。ただ、一切は過ぎて行きます。
自分が今まで阿鼻叫喚で生きて来た所詮「人間」の世界に於いて、
たった一つ、真理らしく思はれたのは、それだけでした。
ただ、一切は過ぎて行きます。
葉隠は人間の生命燃焼がもつ美学を説いている。
人間として生き切るための人生の完全燃焼の方法論である。
燃焼とは「燃え上がる」ことではない。
燃えるという燃焼や、燃え上がるという燃焼には、他力本願の
考え方がみられる。
燃焼とは、自分だけによる継続的な燃焼である。
重力の収斂によって生ずる燃焼と言えるだろう。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/02/22 06:51:15)
2025年2月22日(土)
おはようございます。今朝も寒い朝の千葉からです。
なぜ生きていなければならないのか。
その問いに思い悩んで居るうちは、私たち、朝の光を見ることが、
そうして、私たちを苦しめて居るのは、ただ、この問いひとつに尽
ひとりの人間は、自己の生命燃焼の必要性を痛感せざる得なくなる
生命とは、燃焼するためにこの世に存在している。それを深く感ず
人間に与えられた生命は、成功するためにあるのではない。
幸福になるために存在するのでもない。
いわんや楽しみや安定などであろうはずもない。
長生きや健康ですらないのだ。
生命は、ただひたすらに燃焼するためにある。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/02/21 07:47:59)
2025年2月21日(金)
おはようございます。今朝も寒い朝の千葉からです。
他を責める前に自己の約束に忠実であれ。
第一に自分の職務に忠実であることが欠くことのできない義務であ
小さい職務から忠実に果たせ。
小さいものに忠実であるものは、大きなものに対しても忠実に果た
魂の崇高を求めるとは、その永遠に変わることのない実在、
つまり愛や義や信を絶対の価値として生きることに繋がるのだ。
その一環として葉隠的な覚悟の問題も実在していると言っても
いいだろう。
だから魂の特別な価値を目指して生きる者は、人類の過去も
未来もすべて理解することが出来るようになる。
真の武士道の魂とは、悠久の過去から永劫の未来までを
つんさぐ宇宙的エネルギーの流れに他ならない。
この世の小さな自分だけにこだわるような者は、葉隠を身に
付けることは出来ないのだ。 >>>続きはこちらから
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