From : 田渕裕哉(2025/07/29 07:30:03)
2025年7月29日(火)
おはようございます。今朝はいい天気の越後湯沢からです。
論理はA地点からB地点まであなたを連れて行ってくれる。
想像力は、あなたをどこへでも連れて行ってくれる。
アルベルト・アインシュタイン
足を踏まれて「あいたたた・・・」。
こんなとき、足を踏んだ人が謝るのは当然ですが、足を踏まれた人
「ごめんなさい」と謝る。これが粋な江戸っ子でした。
踏まれた人が謝るんです。「私がボーッとしていたのも悪かったん
こちらこそごめんなさい」というふうに。
これは「うかつあやまり」と呼ばれた江戸の作法「江戸しぐさ」の
足を踏まれたほうが謝る。これって「正しい」か「正しくない」で
たぶん正しくないでしょう。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/07/28 06:34:40)
2025年7月28日(月)
おはようございます。今朝もいい天気の千葉からです。今日は越後
なんとなく良さそうなことを眺めている暇はない。
考えるべきは、どうすれば最高の成果が出せるかということだ。
グレッグ・マキューン
恩が血液のようにぐるぐるめぐっている日本列島。
だから、日本人は「ご縁」を大事にするし、日本語には
「おかげさま」という他の国にはない言葉があります。
北里柴三郎は、福沢諭吉が創設した慶應義塾の、新設の
医学部の教授陣に、志賀潔をはじめ、ハブの血清療法で
有名な北島多一など、北里研究所の名だたる教授陣を
惜しげもなく送り込みました。
慶應が、私立の大学でありながら、日本医学界で絶大な
存在感を示しているのは、このような経緯があったからです。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/07/27 07:02:00)
2025年7月27日(日)
おはようございます。今朝もいい天気の千葉からです。
真実の追求は、誰かが以前に信じていた全ての“真実”の疑いから
フリードリヒ・ニーチェ
サブローの熱意に心を動かされた諭吉は、研究の場を無償で提供す
即決し、私財を投じて港区芝公園に研究所を建てます。
その後、研究所は愛宕町に移転、が、ここでもまた問題は勃発しま
「伝染病」という言葉に過剰に反応した地域住民たちから、猛烈な
声が上がったのです。
このピンチを救ったのも福沢諭吉でした。
不安にかられる住民たちに安全をアピールするために、研究所のす
隣りに、なんと自分の息子の家を新築したのです。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/07/26 07:02:01)
2025年7月26日(土)
おはようございます。今朝もいい天気の千葉からです。今日は東京
すべての知識の拡大は、無意識を意識化することから生じる。
フリードリヒ・ニーチェ
1917年、サブローは慶應義塾大学に医学部を創設。
しかもサブローは10年余りの間、慶應義塾で医学教育の発展に尽
その間、給料は一切受け取らなかったといいます。
サブローは、なぜ、そこまでできたのでしょうか?
ここで1891年に話はさかのぼります。まだサブローがベルリン
世界で初めて血清療法を発見し、世界の医学界でサブローフィーバ
イギリスのケンブリッジ大学からも「細菌研究所を創設するので、
ほしい」という依頼が舞い込みます。
ありえないほどの名誉。条件も破格。しかし、サブローは、お金も
選んだ道は・・・日本。
From : 田渕裕哉(2025/07/25 05:11:08)
2025年7月25日(金)
おはようございます。今朝は福島からお届けします。
問いがそのまま答えになるほど執拗に問う人もあり、
問う能力がないから答えを持っている人もあるのだ。
小林秀雄
世界のサブロー、彼の実績もすごいのですが、生き方もまた素敵な
例えば1897年、サブローの弟子、志賀潔が、弱冠26歳で赤痢
世界を驚かせたときのこと。
志賀潔は、自著「或る細菌学者の回想」のなかで、こう記していま
「私は大学を出たばかりの若僧だったから、北里柴三郎先生の共同
いうよりも、むしろ研究助手というのが本当であった。しかるに研
予期以上の成果をあげて論文を発表するに当たり、先生はただ前書
書かれただけで、私一人の名前で書くように言われた。
普通ならば当然連名で発表されるところである。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/07/24 08:27:07)
2025年7月24日(木)
おはようございます。今朝もいい天気の千葉からです。
出来上った知を貰う事が、学ぶ事ではなし、出来上った知を与える
質問する意志が、疑う意志が第一なのだ。
小林秀雄
32歳、サブロー。彼はいつも同じ道を歩いていた。自宅から研究
内務省衛生局から、ベルリン大学へ留学したサブローは、ドイツで
にあけくれていました。
朝、目覚めたら、まっすぐ研究室へ。1日が終わったら、まっすぐ
サブローはベルリン到着から1年余りも、自分の部屋と研究室を結
サブローが毎日てくてく歩く道は一本道。研究室へと向かう一本道
4年後、サブローが歩むその一本道に、花が咲きました。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/07/23 06:47:24)
2025年7月23日(水)
おはようございます。今朝もいい天気の千葉からです。
考えるという事と書くという事は二つの事実を指してはいないので
言葉という技術を飛びこして何か考えるなどとは狂気の沙汰である
小林秀雄
諭吉が生まれた中津藩は、政治的には目立たなくても、学問重視の
気風がある中津藩に生まれた。
そのおかげで、新しい時代の日本をつくるのに必要な知識を身に
つけることができたのです。
下級武士の次男というパッとしない身分も、諭吉にとっては絶妙の
環境でした。
藩の重役の息子なら、体制を保つ側にまわらないといけなかった。
でも、下級武士だったから、身分制度の限界を感じることができた
From : 田渕裕哉(2025/07/22 07:00:37)
2025年7月22日(火)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。
考えて、考えて考えて・・・するとな、いろんなことがいずれ考え
そうしたら、ようやくそれが自分のものになる。
一条花
パッとしないところで、パッとしない身分で生まれたのが、福沢諭
豊前中津藩(大分県)の下級武士の次男として生まれました。
中津藩というのは10万石の小藩で、あの激動の幕末期にも、さし
とした動きをするわけでもなく、どちらかといえば存在感が薄かっ
言わざるを得ません。
それに対して、薩摩・長州・会津などは、幕末期に鮮やかな存在感
もし諭吉がこれらのどこかに生まれていたら・・・。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/07/21 05:48:56)
2025年7月21日(月・祝)
おはようございます。今朝は博多からお届けしています。今日は神
手ほどきはしてやるが、答えは自分で見つけるもんだ。
ハッキリこうと教えられるよりも、自分でつかんだ答えなら、一生
福田達也
中津藩というのは、激動の幕末期にもパッとした働きをするわけで
存在感は薄かった。
しかし、中津藩は「解体新書」を杉田玄白とともに著した前野良沢
出身地であることからもわかる通り、伝統的に学問を重んじる寄付
そこにシゲじいちゃんのDNAが注ぎ込まれて、新しもの好きで自
空気が生まれました。
だからこそ、学問を究めていくには最高の場であり、福沢諭吉の才
花ひらいたのです。
シゲじいちゃんの十三男・長薄が筑前福岡藩の黒田家を継ぐのです
この福岡藩でも、長薄の影響で、洋学がさかんになりました。
そんなこともあり、福岡藩の藩士に、永井青崖という人が出て、江
蘭学塾を開くのですが、この永井青崖が、なんと勝海舟の師匠にあ
From : 田渕裕哉(2025/07/20 05:08:43)
2025年7月20日(日)
おはようございます。今朝はさわやかな朝の千葉からです。今日は
人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。
しかしそれは考える葦である。
パスカル
斉彬の人生を語るうえで外せないのが第8代藩主・島津重豪です。
斉彬の曾祖父、つまりひい爺ちゃんです。
重豪、あの時代に88歳まで生きたことも驚きですが、側室が
10人以上いて、子どもがわかっているだけでも26人います。
さらに家臣とわざわざ中国語で会話していたと伝えられ、オランダ
語の読み書きもできたというから、かなりのインテリじいちゃんで
シゲじいちゃんこと、重豪が、また素敵なのです。 >>>続きはこちらから
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