人生に悩んだら「日本史」に聞こう21.

From : 田渕裕哉(2025/07/26 07:02:01)

2025年7月26日(土)

おはようございます。今朝もいい天気の千葉からです。今日は東京に行きます!

すべての知識の拡大は、無意識を意識化することから生じる。
フリードリヒ・ニーチェ

1917年、サブローは慶應義塾大学に医学部を創設。

しかもサブローは10年余りの間、慶應義塾で医学教育の発展に尽くしますが、
その間、給料は一切受け取らなかったといいます。

サブローは、なぜ、そこまでできたのでしょうか?

ここで1891年に話はさかのぼります。まだサブローがベルリンにいた頃です。

世界で初めて血清療法を発見し、世界の医学界でサブローフィーバーが巻き起こり、
イギリスのケンブリッジ大学からも「細菌研究所を創設するので、所長に就任して
ほしい」という依頼が舞い込みます。

ありえないほどの名誉。条件も破格。しかし、サブローは、お金も名誉も選ばなかった。

選んだ道は・・・日本。

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人生に悩んだら「日本史」に聞こう20.

From : 田渕裕哉(2025/07/25 05:11:08)

2025年7月25日(金)
おはようございます。今朝は福島からお届けします。

問いがそのまま答えになるほど執拗に問う人もあり、
問う能力がないから答えを持っている人もあるのだ。
小林秀雄

世界のサブロー、彼の実績もすごいのですが、生き方もまた素敵なのです。

例えば1897年、サブローの弟子、志賀潔が、弱冠26歳で赤痢菌を発見し、
世界を驚かせたときのこと。

志賀潔は、自著「或る細菌学者の回想」のなかで、こう記しています。

「私は大学を出たばかりの若僧だったから、北里柴三郎先生の共同研究者と
いうよりも、むしろ研究助手というのが本当であった。しかるに研究が
予期以上の成果をあげて論文を発表するに当たり、先生はただ前書きを
書かれただけで、私一人の名前で書くように言われた。

普通ならば当然連名で発表されるところである。 >>>続きはこちらから

人生に悩んだら「日本史」に聞こう19.

From : 田渕裕哉(2025/07/24 08:27:07)

2025年7月24日(木)
おはようございます。今朝もいい天気の千葉からです。

出来上った知を貰う事が、学ぶ事ではなし、出来上った知を与える事が教える事でもなかろう。
質問する意志が、疑う意志が第一なのだ。
小林秀雄

32歳、サブロー。彼はいつも同じ道を歩いていた。自宅から研究室への道を。

内務省衛生局から、ベルリン大学へ留学したサブローは、ドイツで細菌学の研究
にあけくれていました。

朝、目覚めたら、まっすぐ研究室へ。1日が終わったら、まっすぐ自分の部屋へ。

サブローはベルリン到着から1年余りも、自分の部屋と研究室を結ぶ道以外を知らなかった。

サブローが毎日てくてく歩く道は一本道。研究室へと向かう一本道

4年後、サブローが歩むその一本道に、花が咲きました。 >>>続きはこちらから

人生に悩んだら「日本史」に聞こう18.

From : 田渕裕哉(2025/07/23 06:47:24)

2025年7月23日(水)
おはようございます。今朝もいい天気の千葉からです。

考えるという事と書くという事は二つの事実を指してはいないのである。
言葉という技術を飛びこして何か考えるなどとは狂気の沙汰である
小林秀雄

諭吉が生まれた中津藩は、政治的には目立たなくても、学問重視の
気風がある中津藩に生まれた。

そのおかげで、新しい時代の日本をつくるのに必要な知識を身に
つけることができたのです。

下級武士の次男というパッとしない身分も、諭吉にとっては絶妙の
環境でした。

藩の重役の息子なら、体制を保つ側にまわらないといけなかった。

でも、下級武士だったから、身分制度の限界を感じることができた>>>続きはこちらから

人生に悩んだら「日本史」に聞こう17.

From : 田渕裕哉(2025/07/22 07:00:37)

2025年7月22日(火)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。

考えて、考えて考えて・・・するとな、いろんなことがいずれ考えなくてもできるようになる。
そうしたら、ようやくそれが自分のものになる。
一条花

パッとしないところで、パッとしない身分で生まれたのが、福沢諭吉です。

豊前中津藩(大分県)の下級武士の次男として生まれました。

中津藩というのは10万石の小藩で、あの激動の幕末期にも、さしてパッ
とした動きをするわけでもなく、どちらかといえば存在感が薄かったと
言わざるを得ません。

それに対して、薩摩・長州・会津などは、幕末期に鮮やかな存在感を残しています。

もし諭吉がこれらのどこかに生まれていたら・・・。 >>>続きはこちらから

人生に悩んだら「日本史」に聞こう16.

From : 田渕裕哉(2025/07/21 05:48:56)

2025年7月21日(月・祝)
おはようございます。今朝は博多からお届けしています。今日は神戸でセミナーです。

手ほどきはしてやるが、答えは自分で見つけるもんだ。
ハッキリこうと教えられるよりも、自分でつかんだ答えなら、一生忘れない。
福田達也

中津藩というのは、激動の幕末期にもパッとした働きをするわけでもなく、
存在感は薄かった。

しかし、中津藩は「解体新書」を杉田玄白とともに著した前野良沢
出身地であることからもわかる通り、伝統的に学問を重んじる寄付があり、
そこにシゲじいちゃんのDNAが注ぎ込まれて、新しもの好きで自由な
空気が生まれました。

だからこそ、学問を究めていくには最高の場であり、福沢諭吉の才能も
花ひらいたのです。

シゲじいちゃんの十三男・長薄が筑前福岡藩の黒田家を継ぐのですが、
この福岡藩でも、長薄の影響で、洋学がさかんになりました。

そんなこともあり、福岡藩の藩士に、永井青崖という人が出て、江戸で
蘭学塾を開くのですが、この永井青崖が、なんと勝海舟の師匠にあたるのです。 >>>続きはこちらから

人生に悩んだら「日本史」に聞こう15.

From : 田渕裕哉(2025/07/20 05:08:43)

2025年7月20日(日)
おはようございます。今朝はさわやかな朝の千葉からです。今日は熊本でセミナーです。

人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。
しかしそれは考える葦である。
パスカル

斉彬の人生を語るうえで外せないのが第8代藩主・島津重豪です。

斉彬の曾祖父、つまりひい爺ちゃんです。

重豪、あの時代に88歳まで生きたことも驚きですが、側室が
10人以上いて、子どもがわかっているだけでも26人います。

さらに家臣とわざわざ中国語で会話していたと伝えられ、オランダ
語の読み書きもできたというから、かなりのインテリじいちゃんです。

シゲじいちゃんこと、重豪が、また素敵なのです。 >>>続きはこちらから

人生に悩んだら「日本史」に聞こう14.

From : 田渕裕哉(2025/07/19 06:55:22)

2025年7月19日(土)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。

作曲の95パーセントは、過去の遺産を糧にしています。
作曲家自身の「発明」は、せいぜい1~2パーセント程度で、最大5パーセントといったところ。
作曲の大部分は過去の作品の引用です。
坂本龍一

これからの話で、歴史の醍醐味をあなたに味わっていただきたいと思います。

まず、知っていただきたいのは、薩摩藩(鹿児島県)の殿様のふたり、
第11代藩主・島津斉彬と、斉彬の曾祖父・島津重豪です。

このふたりが幕末、明治の流れを大きく変えたのです。

まず、島津斉彬。斉彬は身分制度が厳しい江戸時代にありながら、藩政に
対する意見があれば、遠慮なく言ってくれと藩士たちに伝えていました。

すると、あるひとりの下級武士が、農政についての意見書を提出。

その意見書が斉彬の目に留まります。これが当時27歳の西郷隆盛でした。

西郷の才能を見抜いた斉彬は、来る日も来る日も西郷に、今の日本が置かれて
いる立場や世界情勢、政治、経済のことを語って聞かせたといいます。 >>>続きはこちらから

人生に悩んだら「日本史」に聞こう13.

From : 田渕裕哉(2025/07/18 06:46:37)

2025年7月18日(金)
おはようございます。今朝は郡山からお届けしています。

空白の部分を考える、それが私の喜び。
松本清張

江戸時代の日本は黒船来航から6年の間に、薩摩、佐賀、伊予宇和島の
3藩すべてで、黒船を完成させています。

江戸時代の日本は、200年以上も鎖国が続いていて、実は大型船
建造することすら禁止されていたんです。

それが、黒船を見て、自分たちでも造れると動き出して見事に造り上げた。

この先人たちの好奇心とバイタリティー、そして途方もない夢を実現して
しまう技術力があったからこそ、アジアの国々のほとんどが欧米の植民地
となるなかで、日本は奇跡的に独立を保てたのでしょう。

黒船を造ることは、喜蔵自身が描いた夢ではありませんでした。 >>>続きはこちらから

人生に悩んだら「日本史」に聞こう12.

From : 田渕裕哉(2025/07/17 07:00:58)

2025年7月17日(木)
おはようございます。今朝はさわやかな朝の千葉からです。今日は白石市でセミナーです。

どこに行こうとしているかがわかっていなければ、どの道を通ってもどこにも行けない。
ヘンリー・キッシンジャー

できあがった蒸気船が宇和島湾に浮かんだとき、藩主の伊達宗城は無邪気に
喜びを表して「これで参勤交代するんだ」と言ったそうです。

そしていよいよ海上運転が行なわれました。

喜蔵は狭い機関室に入ったまま、釜焚きから操作までをひとりでこなしました。

でも、ほんとうに動くのか?動くのか?喜蔵の鼓動は高まります。

「!」小さな船窓から天守閣が静かに後ろに下がっていくのが見えました。

「動いた!」その実感を得たとき、喜蔵は何を思ったでしょうか。 >>>続きはこちらから