From : 田渕裕哉(2025/03/07 07:33:36)
2025年3月7日(金)
おはようございます。今朝はさわやかな朝の千葉からです。
指導者の心得6.
指導者には何ものかに祈るというほどの真剣な思いが必要である。
私の根本思想は、死が生より尊いことによって成り立っている。
だから死者は生者より尊い。
そして、まだ生まれ来ぬ未来の人間たちも現世の我々より尊いので
このような、死の絶対性こそが、葉隠という武士道の思想の根幹を
いるのだ。
葉隠の魂を見つめれば、現世の自己の存在を捨てることによって、
過去と現在、そして未来をすら見通すだけの思想をもつことが出来
葉隠の思想は、時間というものを超越している。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/03/06 07:10:45)
2025年3月6日(木)
おはようございます。今朝は曇りの千葉からです。
指導者の心得5.
指導者には命をかけて事にあたるほどの心境が必要である。
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」
私はいつでも、この言葉によって救われてきた。
弱くなったとき、自己の魂とその使命を忘れることを、
止められたのだ。
再び、体当たりの精神が甦り、私は「人間」の生き方の
原点に戻ることが出来たのである。
私のもつ人生観のうち、最も美しくまた崇高な生き方を、
私はこの葉隠の第一戒からいつでも汲み上げ続けている。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/03/05 07:14:13)
2025年3月5日(水)
おはようございます。今朝も小雨の千葉からです。
指導者の心得4.
指導者は敵をも愛するゆたかな心を持ちたい。
死を見つめる者だけが、人類の未来を感ずることが出来る。
現世において、人間の存在理由を知った者は、そのまま未来の姿
を知ることが出来る。
人間の生命の本質は、過去・現在・未来を貫徹する宇宙エネルギー
の道筋に繋がる。
予言とは、死のエネルギーがもたらすものである。
未来は、死が創り出すものなのだ。
私はこの葉隠第一戒ほど男らしく崇高な言葉に出会ったことはない
From : 田渕裕哉(2025/03/04 07:58:19)
2025年3月4日(火)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。
指導者の志。
指導者は指導者としての公の怒りを持たなくてはならない。
死ぬために生きることが、真に生きることなのだと知る必要がある
実は生きることの真の出発とは、死に方を決めることに他ならなか
「死を教えることは、生きることを教えることになるだろう」モン
高貴な生き方とは何か。そして崇高な死に方とは何かを私は問うて
ただ一度の人生である。高貴を求めずして、何の気概やある。
出来るか出来ないかなどを問う者は、すべて臆病者でしかない。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/03/03 07:59:10)
2025年3月3日(月)
おはようございます。今朝は小雨の千葉からです。
指導者の心得2.
指導者はいうべきことをいうきびしさを持たなくてはならない。
生きるとは、矛盾の中を突っ切るということに尽きよう。
また死ぬとは、矛盾のすべてを引き受けて海岸へ旅立つ
ことに他ならない。
それが我々人間の人生の真実なのである。
真実の人間は矛盾を恐れずに生き、また矛盾を恐れずに語るのだ。
キリストは「私は、火を地上に投じるために来たのだ」と言った。
私はキリストの言葉を、葉隠第一戒と同じ「誠」の言葉として捉え
From : 田渕裕哉(2025/03/02 06:38:08)
2025年3月2日(日)
おはようございます。今朝もいい天気の千葉からです。
指導者の心得1.
指導者は人、物すべてをあるがままにみとめなくてはならない。
死ぬことだけが、真に生きることを生み出す。
死に狂いとは、このことを言う。
「死は、不死の始まりである」そう言ってロべスピエール
は死んだのだ。
ここには死が生であり、生がそのまま死であることの
人生的真理が潜んでいる。
善悪を考え過ぎる者に、体当たりは出来ない。
自分が悪人として死することも辞さない人間だけに、
体当たりは断行できるのである。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/03/01 07:44:06)
2025年3月1日(土)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。
僕たちは命を、羽のように軽いものだと思っている。
けれどもそれは命を粗末にしているという意味ではなくて、
僕たちは命を羽のように軽いものとして愛しているということだ。
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」の第一戒が一つの
流体エネルギーと化して、毎日毎日、朝から晩まで自己の中に
浸潤して来なければならない。
この言葉を流体と感ずれば、その内容は自己の生命の内部に
必ず浸潤して来る。
そうなれば体当たりが楽しくて仕方がない状態が現出するのだ。
我々は、その状態を創るまでの過程を鍛錬と呼んでいるに違いない
私は宇宙の本質は「暗黒流体」だと思っている。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/02/28 06:48:39)
2025年2月28日(金)
おはようございます。今朝も博多からお届けしています。
これからはもう物事をあんまり複雑に考えるのは止しになさるんで
人生も政治も案外単純浅薄なものですよ。
もっともいつでも死ねる気でなくては、そういう心境にはなれませ
生きたいという欲が、すべての物事を複雑怪奇に見せてしまうんで
私の人生は、この「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」
という思想の地上的展開に過ぎない。
それ以外に、私は何も望まずまた何を得ようとは思わない。
この思想の人生的実行を目指して生きることだけしかない。
死ぬために生きることは、私の人間としての生のすべてである。
死の覚悟をもって生きることだけが、本当の人間のための
生命燃焼を創る。
体当たりの人生は、死の覚悟なくして決して出来るものではない。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/02/27 06:08:09)
2025年2月27日(木)
おはようございます。今朝は博多からお届けしています。
生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではなか
それほどに差は無いような気がした。
武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。
この言葉には葉隠に宿る魂のすべてが降り注いでいる。
それはまた、私の全意見であり全科学である。
また全芸術であり、全行動であり、全過去であり、
また全未来でもあるのだ。
この思想が「葉隠」の初めにあることに、私は表現できぬ
ほどの喜びを感ずる。
これほどの勇気ある言葉が、この世に存在するだろうか。
この言葉のためだけに、私は死ぬことが出来る。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/02/26 05:07:00)
2025年2月26日(水)
おはようございます。今朝はいい天気の千葉からです。今日から九
自分の本質と世界の本質を、そこまで強固に結びあわせる
ことができたら、素晴らしいと思わないか?
それは世界の秘密のカギを、この手に握ったということじゃないだ
我々は、自己の生命の本体である自分の運命に、死ぬ気で
ぶち当たらなければならない。
この死ぬ気で運命にぶつかることによって生ずる衝撃が、
先に述べた核融合エネルギーの燃焼を促す。
死という動かし難い一点に向かうことによって、却って、
我々の生命の中に熱い炎が生まれて来るのだ。
我々の生命がもつ根源的実在とも言えよう。
その一点に、命懸けでぶつかる。
それは根源的矛盾との対面となろう。 >>続きはこちらから
カテゴリー
アーカイブ