From : 田渕裕哉(2025/10/17 08:01:36)
2025年10月17日(金)
おはようございます。今朝はさわやかな朝の千葉からです。
我々の性格は、我々の行動の結果なり。
愛というものは、愛されることによりも、むしろ愛することに存す
アリストテレス
江戸時代、サムライ日本人が、まだ見ぬ地アメリカへ乗り込んでい
1860年、徳川幕府は、日米修好通商条約を批准するため、米国
使節団を派遣します。
アメリカ中が、初めて見る日本人というものに、好奇心をかきたて
いました。
そして使節団一行は、ニューヨークで、空前絶後の大歓迎を受けた
ブロードウェイを行進する日本人を見るために、人々は集まり、記
取材のために駆け回りました。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/10/16 07:12:57)
2025年10月16日(木)
おはようございます。2026年ビジョン設定合宿3日目最終日で
私たちは無知によって道に迷うことはない。
自分が知っていると信じることによって迷うのだ。
人は常に幸福を求めるが、常に幸福に気づかない。
私は、航空会社に勤務していた頃、仕事や旅行で海外の
さまざまな街を訪れましたが、そのたびに、日本人ブランド
を感じていました。
「日本人だから」という理由だけで、信用してもらえたり、
とても親切にしていただきました。
それは、先人たちの素晴らしい生き方に、世界中の人々が
共感してくれていることからきていたと思います。
敗戦後、日本がまたたく間に復興できたのも、日本人の努力や
能力以上に、日本人ブランドが世界に愛されていたからでは
ないでしょうか。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/10/15 07:05:17)
2025年10月15日(水)
おはようございます。ビジョン設定合宿2日目です。
止まりさえしなければ、どんなにゆっくりでも進めばよい。
義を見てせざるは
勇無きなり
孔子
それから6年の月日が流れた2002年、天皇・皇后両陛下が、
ポーランド・チェコ・ハンガリー・オーストリアの中東欧4ヵ国を
初めて公式訪問されました。
この両陛下のご訪問を、ポーランドのマスコミは連日取り上げまし
そのあまりの歓迎ぶりに、同行した宮内庁の職員も驚きを隠せなか
といいます。
このとき、ポーランドのある老夫婦が、両陛下に謁見しました。
ポーランド孤児の一人、アントニーナ・リロさん、85歳。
彼女が日本に救済されたのは、わずか3歳のときでした。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/10/14 07:05:53)
2025年10月14日(火)
おはようございます。今日から3日間、湯河原のホテルで来年の計
「ビジョン合宿」と呼んでいて、毎年この時期にホテルに籠ります
仕事だけでなく、人生のビジョンを決める3日間です。楽しみです
過去が現在に影響を与えるように、未来も現在に影響を与える。
人々はあなたの美徳によってあなたを罰し、あなたの過ちによって
ニーチェ
1995年1月17日午前5時46分。
関西地方を、大地震が襲いました。阪神淡路大震災です。
あまりの被害の甚大さに、日本ばかりか世界中に衝撃が走りました
地震発生の翌日にいち早く救済活動を始めてくれた国の一つがポー
この年の夏、震災で被災した日本人の子どもたち約30名が、ポー
招かれました。
子どもたちの傷ついた心を癒すために、ポーランド各地で交流やホ
行なわれ、また寄付や協力の申し出も相次ぎました。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/10/13 06:20:00)
2025年10月13日(月・祝)
おはようございます。今日は八戸でセミナーです!
よりよく生きる道を探し続けることが、最高の人生を生きることだ
生きるために食べよ、食べるために生きるな。
ソクラテス
ドイツ軍も簡単には引き下がりません。
「われわれは信頼に足る情報に基づいて捜査を行なっている。
たとえ日本国大使館の申し出であっても、容認はできない。
お引き取りください。」
すると、井上書記官は、イエジたちに言いました。
「君たち、このドイツ人たちに、日本と君たちの信頼の証しと
して、日本の歌を聞かせてやってくれないか」
イエジたちが日本語で「君が代」そして「さくら」を大合唱
すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、渋々立ち去りました。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/10/12 06:40:49)
2025年10月12日(日)
おはようございます。今朝は曇りの千葉からです。
人の弱点を見つける天才よりも、人を褒める天才がいい。
君が次に叩く1回で、壁は打ち破れるかもしれないんだ!
松岡修造
立ち上がった、その青年の名は、イエジ・エトシャゥコフスキ。
1938年9月1日、ナチスドイツがポーランドに侵攻したことに
始まった第二次世界大戦。
それを受け、ポーランドの青年、イエジはすぐに勇士を募って、
ナチスドイツに対して、レジスタンス運動を開始します。
イエジの名をとって「イエジキ(イエジの子どもたち)部隊」
と呼ばれました。
イエジキ部隊は、もともと彼らが面倒をみてきた孤児たちや、
新たな戦禍で親を失った戦災孤児たちも続々と参加し、やがて
1万名を数える大きな組織になります。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/10/11 07:15:18)
2025年10月11日(土)
おはようございます。今朝は小雨の千葉からです。
何でもできる人はいない。
どんなにいいヒントを貰っても、それを実行しなければ成果は上が
落合博満
こうして、来日当初、青白く痩せこけていた彼らとはまるで別人の
元気がみなぎってきました。
しかし、それは同時に、子どもたちが故国ポーランドに帰る日が近
いることを意味していました。
「誰もが、このまま日本にいることを望んでいました。太陽が綺麗
美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に・・・。」
そしてお別れの日。送られるポーランドの子どもたちも、見送る日
涙、涙、涙・・・。
765名に及ぶポーランドの孤児たちは、日本で治療を受け休養を
故国ポーランドに向けて旅立って行きました。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/10/10 07:49:11)
2025年10月10日(金)
おはようございます。今朝はさわやかな朝の千葉からです。
自己を過大評価した瞬間から、思考の硬直が始まる。
勝っているときが一番怖い。
リードしているときが一番怖い。
野村克也
日本までの長旅の間、不安な気持ちで過ごしたであろうポーランド
日本に到着した彼らを待っていたのは・・・。
歯科治療や散髪のボランティアを申し出る人たち、衣類やお菓子・
や人形などを持ち寄る人々。
寄付金を申し出る人々も後を絶ちませんでした。
そして大人に連れられ、お見舞いに訪れた日本人の子どもたちは、
洋服や、身につけている髪飾りを、迷わずポーランドの子どもたち
したのです。 >>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/10/09 06:46:39)
2025年10月9日(木)
おはようございます。今朝は博多からお届けしています。
なぜ逃げるのか。
打たれて命を取られるのか。
打たれたからって命を取られるわけないんだ。
逃げるな。
長嶋茂雄
ところが、翌年にポーランドとロシアとの間に戦争が始まり、
孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことができなくなってしまうの
そこで救済委員会は、欧米諸国に孤児たちの救済を訴えたのですが
第一次世界大戦直後の混乱が続くなか、各国の反応は冷淡なもので
そのような状況で、ポーランドが最後の望みを託した相手が、日本
だったのです。
日露戦争でロシアを破った日本なら、救いの手を差し伸べてくれる
しれない・・・。
その祈りにも似た願いが、外務省を通して日本赤十字社にもたらさ
From : 田渕裕哉(2025/10/08 06:57:43)
2025年10月8日(水)
おはようございます。今朝は熊本からです。
努力は必ず報われる。
もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。
基本的にプロというのは、ミスをしてはいけないんですよ。
王貞治
ポーランドの場所をご存知ですか?
実は、日本とポーランドの間には、深い関係があるのです。
1918年、ポーランドはロシアから念願の独立を果たします。
それまで50年以上にわたって、ポーランド人は独立を求めて、
何度もロシアに対して武装蜂起しては、そのたびに失敗。
多くの男たちが囚われの身となってシベリアで強制労働を
させられていました。
そんな男たちを追って、恋人や家族もシベリアへ行く決意をします
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