From : 田渕裕哉(2025/10/13 06:20:00)
2025年10月13日(月・祝)
おはようございます。今日は八戸でセミナーです!
よりよく生きる道を探し続けることが、最高の人生を生きることだ
生きるために食べよ、食べるために生きるな。
ソクラテス
ドイツ軍も簡単には引き下がりません。
「われわれは信頼に足る情報に基づいて捜査を行なっている。
たとえ日本国大使館の申し出であっても、容認はできない。
お引き取りください。」
すると、井上書記官は、イエジたちに言いました。
「君たち、このドイツ人たちに、日本と君たちの信頼の証しと
して、日本の歌を聞かせてやってくれないか」
イエジたちが日本語で「君が代」そして「さくら」を大合唱
すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、渋々立ち去りました。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/10/12 06:40:49)
2025年10月12日(日)
おはようございます。今朝は曇りの千葉からです。
人の弱点を見つける天才よりも、人を褒める天才がいい。
君が次に叩く1回で、壁は打ち破れるかもしれないんだ!
松岡修造
立ち上がった、その青年の名は、イエジ・エトシャゥコフスキ。
1938年9月1日、ナチスドイツがポーランドに侵攻したことに
始まった第二次世界大戦。
それを受け、ポーランドの青年、イエジはすぐに勇士を募って、
ナチスドイツに対して、レジスタンス運動を開始します。
イエジの名をとって「イエジキ(イエジの子どもたち)部隊」
と呼ばれました。
イエジキ部隊は、もともと彼らが面倒をみてきた孤児たちや、
新たな戦禍で親を失った戦災孤児たちも続々と参加し、やがて
1万名を数える大きな組織になります。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/10/11 07:15:18)
2025年10月11日(土)
おはようございます。今朝は小雨の千葉からです。
何でもできる人はいない。
どんなにいいヒントを貰っても、それを実行しなければ成果は上が
落合博満
こうして、来日当初、青白く痩せこけていた彼らとはまるで別人の
元気がみなぎってきました。
しかし、それは同時に、子どもたちが故国ポーランドに帰る日が近
いることを意味していました。
「誰もが、このまま日本にいることを望んでいました。太陽が綺麗
美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に・・・。」
そしてお別れの日。送られるポーランドの子どもたちも、見送る日
涙、涙、涙・・・。
765名に及ぶポーランドの孤児たちは、日本で治療を受け休養を
故国ポーランドに向けて旅立って行きました。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/10/10 07:49:11)
2025年10月10日(金)
おはようございます。今朝はさわやかな朝の千葉からです。
自己を過大評価した瞬間から、思考の硬直が始まる。
勝っているときが一番怖い。
リードしているときが一番怖い。
野村克也
日本までの長旅の間、不安な気持ちで過ごしたであろうポーランド
日本に到着した彼らを待っていたのは・・・。
歯科治療や散髪のボランティアを申し出る人たち、衣類やお菓子・
や人形などを持ち寄る人々。
寄付金を申し出る人々も後を絶ちませんでした。
そして大人に連れられ、お見舞いに訪れた日本人の子どもたちは、
洋服や、身につけている髪飾りを、迷わずポーランドの子どもたち
したのです。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/10/09 06:46:39)
2025年10月9日(木)
おはようございます。今朝は博多からお届けしています。
なぜ逃げるのか。
打たれて命を取られるのか。
打たれたからって命を取られるわけないんだ。
逃げるな。
長嶋茂雄
ところが、翌年にポーランドとロシアとの間に戦争が始まり、
孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことができなくなってしまうの
そこで救済委員会は、欧米諸国に孤児たちの救済を訴えたのですが
第一次世界大戦直後の混乱が続くなか、各国の反応は冷淡なもので
そのような状況で、ポーランドが最後の望みを託した相手が、日本
だったのです。
日露戦争でロシアを破った日本なら、救いの手を差し伸べてくれる
しれない・・・。
その祈りにも似た願いが、外務省を通して日本赤十字社にもたらさ
From : 田渕裕哉(2025/10/08 06:57:43)
2025年10月8日(水)
おはようございます。今朝は熊本からです。
努力は必ず報われる。
もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。
基本的にプロというのは、ミスをしてはいけないんですよ。
王貞治
ポーランドの場所をご存知ですか?
実は、日本とポーランドの間には、深い関係があるのです。
1918年、ポーランドはロシアから念願の独立を果たします。
それまで50年以上にわたって、ポーランド人は独立を求めて、
何度もロシアに対して武装蜂起しては、そのたびに失敗。
多くの男たちが囚われの身となってシベリアで強制労働を
させられていました。
そんな男たちを追って、恋人や家族もシベリアへ行く決意をします
From : 田渕裕哉(2025/10/07 06:18:10)
2025年10月7日(火)
おはようございます。今朝もさわやかな朝の千葉からです。
今日は博多、熊本です。
本当に愛していることのためなら、どんなことでも乗り越えられる
常に勝つことはできない。
時にはそのことを受け入れなければならない。
リオネル・メッシ
後日、トルコ政府は、治療にあたった医師らに対し、治療費の請求
彼らは「お金なら、被災したトルコ人にさしあげてください」と言
受け取りませんでした。
串本町では、この事故で亡くなった人々を悼み、今でも5年ごとに
地元の小学校に通う子どもたちの手で、慰霊塔や墓地の清掃も、続
以下は、ネジャッティ・ウトカン駐日トルコ大使の言葉です。
「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献
今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教
From : 田渕裕哉(2025/10/06 07:51:56)
2025年9月6日(月)
おはようございます。今朝もさわやかな朝の千葉からです。
本当に愛していることのためなら、どんなことでも乗り越えられる
常に勝つことはできない。
時にはそのことを受け入れなければならない。
リオネル・メッシ
トルコの大使は、その理由を短いコメントで表しました。
「トルコ人なら誰もが、エルトゥ―ルル号の遭難の際に受けた恩義
ご恩返しをしただけです」
エルトゥールル号の遭難・・・。
1890年(明治23)9月16日の夜に事件は起こりました。
その日は台風にみまわれ、トルコ軍艦エルトゥ―ルル号が和歌山県
岩礁に衝突、沈没したのです。 >>>続きはこちらから
From : 田渕裕哉(2025/10/05 06:57:14)
2025年10月5日(日)
おはようございます。今朝は福島からお届けしています。
失敗を恐れているなら、おそらく君は失敗するだろう。
わたしは完璧を追い求める。
コービー・ブライアント
2機のトルコ航空機が215人の在留邦人を乗せてイラン国境を越
トルコ領域に入ったのは、3月19日18時45分、タイムリミッ
のわずか1時間45分前のことでした。
トルコの領域に入った瞬間「みなさん、トルコにようこそ!」
というアリ機長のアナウンスが機内に響き渡りました。
わきおこる拍手と歓声。助かった・・・。
人々は、互いに手と手を握り合い涙しました。
そこには、乗員と乗客という立場を超えた強い絆が生まれていまし
From : 田渕裕哉(2025/10/04 07:37:19)
2025年10月4日(土)
おはようございます。今朝もさわやかな朝の千葉からです。
今日は福島で2回のセミナーでスピーチします。
すべては練習のなかにある。成功は決して偶然ではない。
勤勉、忍耐、知識、学び、犠牲、そして何よりも自分が取り組んで
ペレ
声の主は、伊藤忠商事のイスタンブール支店長・森永堯氏でした。
森永氏の同僚とその家族34人が、テヘランに取り残されていたの
森永氏がトルコの首都・イスタンブールに赴任したのは10年前。
当時経済官僚だったオザル氏から相談を受け、破綻しかかっていた
経済の再生に尽力してきたのが、森永氏でした。
ビルセル大使からの要請、そして森永氏からの電話。 >>>続きはこちらから
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