人生に悩んだら「日本史」に聞こう107.

From : 田渕裕哉(2025/10/20 07:46:25)

2025年10月20日(月)
おはようございます。今朝は小雨の千葉からです。

親切にしなさい。
あなたが会う人はみんな、厳しい闘いをしているのだから。
目は心の窓である。
プラトン

小栗上野介の生き方は「負け方がある」ということを教えてくれました。

大事なのは、勝敗という結果ではなく、置かれた環境でどれだけ深
思いやれたか、そこにあると。

「両親が病気で死のうとしているとき、もうだめだと思っても、看
のかぎりを尽くすではないか。自分がやっているのはそれだ」

「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない」

小栗上野介はそう語っています。 >>>続きはこちらから

人生に悩んだら「日本史」に聞こう106.

From : 田渕裕哉(2025/10/19 07:49:32)

2025年10月19日(日)
おはようございます。今朝はさわやかな朝の千葉からです。

アダムはリンゴを食べたかったから食べたのではない。
禁じられていたからこそ、食べたのだ。
自分が多数派の側にいると気づいたら、もう意見を変えてもいいころだ。
マーク・トウェイン

どうせ亡びるなら、ボロボロの幕府を倒壊させるのではなく、
日本の将来に大いに役立つ横須賀造船所という「土蔵」をつけた
立派な売家にしておきたい。

それが徳川幕府を愛し、支えた者としてのプライドであり、
愛する祖国への餞別でもあったのでしょう。

事実、この横須賀ドッグは、明治に入って、日本の造船技術を
生み出す唯一の母胎となりました。

小栗上野介、その最期は悲しいものでした。

幕臣である小栗は、新政府軍の手によって打ち首にされています。 >>>続きはこちらから

人生に悩んだら「日本史」に聞こう105.

From : 田渕裕哉(2025/10/18 07:45:58)

2025年10月18日(土)
おはようございます。今朝はさわやかな朝の千葉からです。
今日は福島でリアル・セミナーを開催します。

善人はこの世で多くの害をなす。
彼らがなす最大の害は、人びとを善人と悪人に分けてしまうことだ
楽観主義者はドーナツを見、悲観主義者はドーナツの穴を見る。
オスカー・ワイルド

詩人のウォルト・ホイットマンが、彼らの行進を見て、
「ブロードウェイの行列」というタイトルで、そのときの
感動を詩に表しています。

ホイットマンは「超然」とした彼らの印象、そして「考え
深げな黙想と真摯な魂と輝く目」に感動した、と記しています。

この使節団の主要メンバーの中に、小栗上野介がいました。

幕末から明治にかけて、世界に航海する船を持つことが、
近代国家の条件と考えられており、勝海舟は神戸に私立の
海軍塾を開きました。

その塾長が坂本龍馬です。 >>>続きはこちらから

人生に悩んだら「日本史」に聞こう104.

From : 田渕裕哉(2025/10/17 08:01:36)

2025年10月17日(金)
おはようございます。今朝はさわやかな朝の千葉からです。

我々の性格は、我々の行動の結果なり。
愛というものは、愛されることによりも、むしろ愛することに存する。
アリストテレス

江戸時代、サムライ日本人が、まだ見ぬ地アメリカへ乗り込んでいった。

1860年、徳川幕府は、日米修好通商条約を批准するため、米国
使節団を派遣します。

アメリカ中が、初めて見る日本人というものに、好奇心をかきたてられて
いました。

そして使節団一行は、ニューヨークで、空前絶後の大歓迎を受けたのです。

ブロードウェイを行進する日本人を見るために、人々は集まり、記者たちは
取材のために駆け回りました。 >>>続きはこちらから

人生に悩んだら「日本史」に聞こう103.

From : 田渕裕哉(2025/10/16 07:12:57)

2025年10月16日(木)
おはようございます。2026年ビジョン設定合宿3日目最終日です。

私たちは無知によって道に迷うことはない。
自分が知っていると信じることによって迷うのだ。
人は常に幸福を求めるが、常に幸福に気づかない。

私は、航空会社に勤務していた頃、仕事や旅行で海外の
さまざまな街を訪れましたが、そのたびに、日本人ブランド
を感じていました。

「日本人だから」という理由だけで、信用してもらえたり、
とても親切にしていただきました。

それは、先人たちの素晴らしい生き方に、世界中の人々が
共感してくれていることからきていたと思います。

敗戦後、日本がまたたく間に復興できたのも、日本人の努力や
能力以上に、日本人ブランドが世界に愛されていたからでは
ないでしょうか。 >>>続きはこちらから

人生に悩んだら「日本史」に聞こう102.

From : 田渕裕哉(2025/10/15 07:05:17)

2025年10月15日(水)
おはようございます。ビジョン設定合宿2日目です。

止まりさえしなければ、どんなにゆっくりでも進めばよい。
義を見てせざるは
勇無きなり
孔子

それから6年の月日が流れた2002年、天皇・皇后両陛下が、
ポーランド・チェコ・ハンガリー・オーストリアの中東欧4ヵ国を
初めて公式訪問されました。

この両陛下のご訪問を、ポーランドのマスコミは連日取り上げました。

そのあまりの歓迎ぶりに、同行した宮内庁の職員も驚きを隠せなかった
といいます。

このとき、ポーランドのある老夫婦が、両陛下に謁見しました。

ポーランド孤児の一人、アントニーナ・リロさん、85歳。

彼女が日本に救済されたのは、わずか3歳のときでした。 >>>続きはこちらから

人生に悩んだら「日本史」に聞こう101.

From : 田渕裕哉(2025/10/14 07:05:53)

2025年10月14日(火)
おはようございます。今日から3日間、湯河原のホテルで来年の計画を立てます。
「ビジョン合宿」と呼んでいて、毎年この時期にホテルに籠ります
仕事だけでなく、人生のビジョンを決める3日間です。楽しみです

過去が現在に影響を与えるように、未来も現在に影響を与える。
人々はあなたの美徳によってあなたを罰し、あなたの過ちによってあなたを許す。
ニーチェ

1995年1月17日午前5時46分。

関西地方を、大地震が襲いました。阪神淡路大震災です。

あまりの被害の甚大さに、日本ばかりか世界中に衝撃が走りました

地震発生の翌日にいち早く救済活動を始めてくれた国の一つがポーランドでした。

この年の夏、震災で被災した日本人の子どもたち約30名が、ポーランドに
招かれました。

子どもたちの傷ついた心を癒すために、ポーランド各地で交流やホームステイが
行なわれ、また寄付や協力の申し出も相次ぎました。 >>>続きはこちらから

人生に悩んだら「日本史」に聞こう100.

From : 田渕裕哉(2025/10/13 06:20:00)

2025年10月13日(月・祝)
おはようございます。今日は八戸でセミナーです!

よりよく生きる道を探し続けることが、最高の人生を生きることだ
生きるために食べよ、食べるために生きるな。
ソクラテス

ドイツ軍も簡単には引き下がりません。

「われわれは信頼に足る情報に基づいて捜査を行なっている。
たとえ日本国大使館の申し出であっても、容認はできない。
お引き取りください。」

すると、井上書記官は、イエジたちに言いました。

「君たち、このドイツ人たちに、日本と君たちの信頼の証しと
して、日本の歌を聞かせてやってくれないか」

イエジたちが日本語で「君が代」そして「さくら」を大合唱
すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、渋々立ち去りました。 >>>続きはこちらから

人生に悩んだら「日本史」に聞こう99.

From : 田渕裕哉(2025/10/12 06:40:49)

2025年10月12日(日)
おはようございます。今朝は曇りの千葉からです。

人の弱点を見つける天才よりも、人を褒める天才がいい。
君が次に叩く1回で、壁は打ち破れるかもしれないんだ!
松岡修造

立ち上がった、その青年の名は、イエジ・エトシャゥコフスキ。

1938年9月1日、ナチスドイツがポーランドに侵攻したことに
始まった第二次世界大戦。

それを受け、ポーランドの青年、イエジはすぐに勇士を募って、
ナチスドイツに対して、レジスタンス運動を開始します。

イエジの名をとって「イエジキ(イエジの子どもたち)部隊」
と呼ばれました。

イエジキ部隊は、もともと彼らが面倒をみてきた孤児たちや、
新たな戦禍で親を失った戦災孤児たちも続々と参加し、やがて
1万名を数える大きな組織になります。 >>>続きはこちらから

人生に悩んだら「日本史」に聞こう98.

From : 田渕裕哉(2025/10/11 07:15:18)

2025年10月11日(土)
おはようございます。今朝は小雨の千葉からです。

何でもできる人はいない。
どんなにいいヒントを貰っても、それを実行しなければ成果は上がってこない。
落合博満

こうして、来日当初、青白く痩せこけていた彼らとはまるで別人のように、
元気がみなぎってきました。

しかし、それは同時に、子どもたちが故国ポーランドに帰る日が近づいて
いることを意味していました。

「誰もが、このまま日本にいることを望んでいました。太陽が綺麗で、
美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に・・・。」

そしてお別れの日。送られるポーランドの子どもたちも、見送る日本人も、
涙、涙、涙・・・。

765名に及ぶポーランドの孤児たちは、日本で治療を受け休養をとった後、
故国ポーランドに向けて旅立って行きました。 >>>続きはこちらから