超葉隠論19.

From : 田渕裕哉(2025/02/25 08:01:02)

2025年2月25日(火)
おはようございます。今朝も寒い朝の千葉からです。

死は生の自然の継続である。
もっともよき生の後にもっとも悪しき死が来る理由がない。
死に対する最良の準備が最もよく生きることに在るは疑ひがない。

「夢見ることを止めた時、その青春は終わるのである」

我々は、自己の生命が高貴で美しいものを志向する限り、
青春の中に生き続けている。

超越とは、自己を乗り越えることである。

そこに人生の勝ちを見出す限り、その人は果てしない青春
の真っ只中に生き切ることとなるだろう。

ここに言う自己の本当の生命燃焼とは、この超越的融合の
ことを言っている。

それは我々の日常を乗り越え、我々に自己存在の永遠性を
指し示してくれる。 >>続きはこちらから

超葉隠論18.

From : 田渕裕哉(2025/02/24 06:58:22)

2025年2月24日(月・祝)
おはようございます。今朝もいい天気の千葉からです。

それだから、走るのだ。
信じられているから走るのだ。
間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。

宇宙から与えられた使命とも言える我々の存在理由という一点に向かって、
我々の生命は奮い立つのである。

そして永遠の彼方において、人間の宇宙的使命が終わるとき、我々の使命
もまた燃え尽きるのだ。

葉隠のもつ永遠燃焼という思想は、理解しようと思えば自己が破壊されるだろう。

それは理解するものではない。

我々が自己の親を慕うように、ただひたすらに慕うのだ。 >>続きはこちらから

超葉隠論17.

From : 田渕裕哉(2025/02/23 06:31:55)

2025年2月23日(日)
おはようございます。今朝も寒い朝の千葉からです。

自分には幸福も不幸もありません。ただ、一切は過ぎて行きます。
自分が今まで阿鼻叫喚で生きて来た所詮「人間」の世界に於いて、
たった一つ、真理らしく思はれたのは、それだけでした。
ただ、一切は過ぎて行きます。

葉隠は人間の生命燃焼がもつ美学を説いている。

人間として生き切るための人生の完全燃焼の方法論である。

燃焼とは「燃え上がる」ことではない。

燃えるという燃焼や、燃え上がるという燃焼には、他力本願の
考え方がみられる。

燃焼とは、自分だけによる継続的な燃焼である。

重力の収斂によって生ずる燃焼と言えるだろう。 >>続きはこちらから

超葉隠論16.

From : 田渕裕哉(2025/02/22 06:51:15)

2025年2月22日(土)
おはようございます。今朝も寒い朝の千葉からです。

なぜ生きていなければならないのか。
その問いに思い悩んで居るうちは、私たち、朝の光を見ることが、出来ません。
そうして、私たちを苦しめて居るのは、ただ、この問いひとつに尽きているようでございます。

ひとりの人間は、自己の生命燃焼の必要性を痛感せざる得なくなる

生命とは、燃焼するためにこの世に存在している。それを深く感ずるのだ。

人間に与えられた生命は、成功するためにあるのではない。

幸福になるために存在するのでもない。

いわんや楽しみや安定などであろうはずもない。

長生きや健康ですらないのだ。

生命は、ただひたすらに燃焼するためにある。 >>続きはこちらから

超葉隠論15.

From : 田渕裕哉(2025/02/21 07:47:59)

2025年2月21日(金)
おはようございます。今朝も寒い朝の千葉からです。

他を責める前に自己の約束に忠実であれ。
第一に自分の職務に忠実であることが欠くことのできない義務である。
小さい職務から忠実に果たせ。
小さいものに忠実であるものは、大きなものに対しても忠実に果たせるであろう。

魂の崇高を求めるとは、その永遠に変わることのない実在、
つまり愛や義や信を絶対の価値として生きることに繋がるのだ。

その一環として葉隠的な覚悟の問題も実在していると言っても
いいだろう。

だから魂の特別な価値を目指して生きる者は、人類の過去も
未来もすべて理解することが出来るようになる。

真の武士道の魂とは、悠久の過去から永劫の未来までを
つんさぐ宇宙的エネルギーの流れに他ならない。

この世の小さな自分だけにこだわるような者は、葉隠を身に
付けることは出来ないのだ。 >>続きはこちらから

超葉隠論14.

From : 田渕裕哉(2025/02/20 05:58:13)

2025年2月20日(木)
おはようございます。今朝も寒い朝の千葉からです。

親切には法律以上の力がある。親切があって社会ははじめて円滑となり、
温か味を添えられる。偽善と思われても親切を外に現わせ。
内に親切心はないにしても、外に親切を行為にする。
この行為は偽りではない、真である。

魂の崇高へ向かう者は、この世の多くの価値観よりも、
自己の魂の鍛錬にすべての価値を見出している。

その場合の自己とは、実はこの世だけの自己ではない。

この世の自己とは、肉体と環境を含む自己存在のことだ。

そういう小さな自分を問題としている者は、必ず先ほど
言った悪い意味の孤立になってしまうだろう。

そうではなく、永久の孤独に向かわなければならない。 >>続きはこちらから

超葉隠論13.

From : 田渕裕哉(2025/02/19 05:53:25)

2025年2月19日(水)
おはようございます。今朝も寒い朝の千葉からです。

反対の説にも耳を傾ける心を養え。
自分の嫌いと思う人の説なり行動なりを、冷静に客観的に考える心を養いたい。

生死すらすべて自己責任で行なうという、崇高な魂の価値に向かう者は、
同じだけの愛や義や信の宇宙エネルギーを身に浴びることになる。

だからこそ、孤独がその高貴な働きしかしなくなる。

つまり、孤立にならないのだ。

つまり魂の崇高へ向かえば、高貴な意味における自己中心主義が生まれてくる。

それこそが真の孤独を創り上げる。 >>続きはこちらから

超葉隠論12.

From : 田渕裕哉(2025/02/18 07:48:34)

2025年2月18日(火)
おはようございます。今朝もいい天気の千葉からです。

他人にどのような欠点があっても、程度が違うにしても、
同じ人間である以上は、自分にも必ずいくぶんの同じ欠点がある。

孤独は、自己の魂と、自己の実在という自己存在に係わる
あらゆる環境との対立によって、初めて実現することが出来る。

この孤独を、自分が創り出せるかどうかにすべてがかかっているのだ。

これを創り、それを自己の裁量で維持できれば、自分は徐々に
葉隠的人生を会得していくことが出来るだろう。

出来なければ、葉隠は遊び半分の下らない道徳と何ら変わらないものに
堕してしまう。 >>続きはこちらから

超葉隠論11.

From : 田渕裕哉(2025/02/17 07:13:59)

2025年2月17日(月)
おはようございます。今朝もいい天気の千葉からです。

それぞれの人格を尊敬しよう。あの人も人である。
いや、神である。自分も人である。自分の好まないことは人も好まない。

覚悟に集中する日々を送るのである。

そのときの感覚を、私は宇宙の暗黒流体が自己の存在の中に
侵潤して来ると捉えているのだ。

その感覚を分かってほしいと願っている。

葉隠の思想と自己が対峙し続ければ、必ずそのような状態に
なって来るのだ。

その状態が、孤独の中でしか行なわれないということの
重要性を知る必要がある。

日々の気晴らしに現を抜かしている人間は、この覚悟という
魂の崇高と出会う日は永遠にない。 >>続きはこちらから

超葉隠論10.

From : 田渕裕哉(2025/02/16 07:19:56)

2025年2月16日(日)
おはようございます。今朝も寒い朝の千葉からです。

恥じるより改めることが大切。
恥ずかしいと思うだけに止まるならば、何の効果もない。
名誉と恥は外部の状態から来るものではない。
自分のするべき義務を尽くせ。名誉は自らその中にある。

深い孤独だけが、真の愛を培うことが出来るように私は感じている

多分その愛が、自己存在に関わる本当の覚悟というものを生み出し
くれるのだろう。

人生は、自己の存在に対して本当の覚悟をもとうと決意することか
始まるのだ。

覚悟とは、一つの自己責任でもある。

人生のすべてを自己責任で全うする決意である。

それがあって、初めて本当の人生が出発する。 >>続きはこちらから